🟣高倉健さんプロフィールと人柄
高倉 健(たかくら けん)
1931年2月16日 – 2014年11月10日
日本の俳優、歌手。
本名は小田 剛一(たけいち)だが晩年は親族に剛一郎(ごういちろう)と名乗った。
高倉プロモーション所属。
福岡県中間市出身。
1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。
●人柄
礼儀正しい人物であり、全ての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う。
千葉真一は高倉を一生あこがれの存在で永遠の師匠と公言している。
「(千葉が)デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれた。また、学生服しか持っておらず、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった」、「役者として少し売れてきた後でも(千葉自身の)撮影がない時には、健さんの付き人をしていた」、「(千葉が)離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった」、「(千葉が)東映の労働組合委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた」など、「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。
そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった」と述べていた。
春日太一のインタビュー本で千葉真一は高倉との思い出を語り「僕は健さんの足元にも及ばない」と答えている。
気持ちの通じ合った共演者には「高倉健」という名前を彫った高級ブランドの腕時計をプレゼントしており、千葉真一、田中邦衛、ビートたけしが貰っている。
『ブラック・レイン』で共演したマイケル・ダグラスは大阪京橋の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃。
その様子をダグラスは「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。
あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた。
『君よ憤怒の河を渉れ』が中華人民共和国に輸入され、中国人の半分が観たともいわれており、宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。
高倉のファンである映画監督・張芸謀は『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している。
『夜叉』で共演したビートたけしは撮影中のエピソードとして、真冬の福井県ロケのある日、オフだったにもかかわらず、高倉が激励をしにロケ現場へ現れた。
厳しい寒さの中、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は全く焚火にあたろうとしない。
スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めるが、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。
このためスタッフだけでなく、共演者誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。
やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた。
漫才師から役者業に進出してきたビートたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。
高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。
たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケした。
第23回日本アカデミー賞に出席した岡村隆史は、高倉に長年のファンであることを伝えた。
この時、主演作『無問題』で話題賞を受賞し、「将来は高倉健さんのような俳優になりたい」との受賞スピーチで会場から笑いが巻き起こる中、高倉は独りにこやかに立ち上がって拍手を送った。
2010年、岡村が病気で半年にわたり療養した際にも電話や手紙で激励しており、岡村は高倉の遺作となった『あなたへ』で共演を果たしている。
🟣英語を話すシーンあり
●ブラック・レイン
🟣徹子の部屋 高倉健
https://m.bilibili.com/video/BV1Ux411w7MK
🟣高倉健 x SMAP
https://m.bilibili.com/video/BV1bz411v76X
🟣昭和任侠伝
https://m.bilibili.com/video/BV1P44y1K74v
🟣高倉健 素顔のメッセージ
🟣NHK 仕事の流儀
https://m.bilibili.com/video/BV1Fx411P7dp