【古代讃岐の謎】双方中円墳 全国5基の内3基が高松市にあり、しかも積石塚! 4世紀頃、独自性を持った古代讃岐のリーダーがいたのか?

🟣香川県高松市にある岩清尾山古墳群には古墳時代の4世紀から7世紀にかけて築かれた200基以上の古墳がある。

高松市の中心部から徒歩圏内にある峰山、稲荷山、浄願寺山、紫雲山からなる岩清尾山塊には国内でも特定の地域に限られる積石塚の古墳が見られる。

高松市の中心街から近い場所に、国内に5基しかない双方中円墳の内、3基が峰山(猫塚古墳、鏡塚古墳)と稲荷山(稲荷山北端1号墳)にある。

●猫塚古墳 峰山

※全長は約96メートル、高さは約5メートル。明治43年(西暦1910年)に鉱山試掘を偽った計画的な大盗掘に会い、中央が大きく変形。昭和6年(西暦1931年)に行われた京都帝国大学の調査の報告書には、盗掘の関係者の話などを参考にして、中円部中央に大きな竪穴式石室1基とそれを取りかこむ8基の小さな石室があったと記述されている。盗掘の際に中央の石室から鏡5面(中国製のもの4面、日本製のもの1面)、小銅剣20前後、石釧1、筒形銅器3、銅鏃9、鉄斧1、鉄剣4、鉄刀1、鉄のみ1、鉄やりがんな1、鉄鏃4、土師器2等が見つかった。これらの出土品は現在では東京国立博物館に所蔵されている。

●鏡塚古墳 峰山

●稲荷山北端1号墳 稲荷山

🟣国内で5例しか確認されていない双方中円墳の内、3基が高松市の中心部から近い稲荷山と峰山にある。

しかも積石塚の古墳だ。 栗林公園の背後にあたる。

いったい、どんな一族がこれらの独特な古墳を築いたのだろうか?

日本の双方中円墳

猫塚古墳 積石塚  高松市峰山

鏡塚古墳 積石塚 高松市峰山

稲荷山北端1号墳 積石塚  高松市

櫛山古墳 天理市

西ノ城古墳  福岡県

🟣高松市では、4世紀に作られた積石塚の双方中円墳は、5世紀には見られなくなり、積石塚の前方後円墳が作られるようになる。6世紀には積石塚は見られなくなりなり、盛り土の古墳へと変化していく。

これは、中央のヤマト王権の讃岐に対する影響力が強くなっていったと推測される。

積石塚の双方中円墳を作っていた一族は、独自性を持った者たちで渡来系の一族かもしれない。

●古代讃岐については考古学上の調査が遅れており、不明な点が多い。

今後、讃岐の各地で発掘調査が進んでいくにつれ、新しい発見が世間を賑わすかもしれない。

邪馬台国が讃岐にあったとしても何ら不思議ではない。

卑弥呼説のある孝霊天皇の皇女 倭迹迹日百襲は幼少の頃、奈良から香川県東かがわ市に流されて来て水主神社に住んでいたと言う伝承がある。

東かがわ市には倭迹迹日百襲の艪掛神社、袖掛神社、川田池における逸話が残っている。

また、高松市には船山神社や讃岐一宮の田村神社に伝承が残っている。

●4-5世紀の東アジア

瀬戸内海に面する高松は中国から朝鮮、九州、難波から、奈良へと続くルートの中継地点の港の役割りを果たしていたであろうから独自性を持った渡来系一族のリーダーが港の管理役のような形でいたのかも知れない。

古墳の数から判断すると複数のグループがいたのだろう。

当時の海岸線は、今よりだいぶ内陸部にあり、峰山や稲荷山は海岸に近かった。

港から見える山に独自性のある積石塚の双方中円墳を築き、自分たちの権力をアピールしていたのかもしれない。

その後、この積石塚の双方中円墳を作っていた一族は、ヤマト王権の影響力が強くなるに従い、独自性を失っていき双方中円墳が前方後円墳へと変わり、積石塚は盛り土へと変化していった。。。

🟣稲荷山、峰山、紫雲山のハイキングコース (中野稲荷神社入口)

●稲荷神社近くの公園の桜 2022/4/4

●高松市の瓦町から見た峰山、稲荷山、紫雲山 2022/4/4

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