【タブー】黒人説もある坂上田村麻呂! 後漢の光武帝の流れを組む渡来人! 勝てば官軍! 蝦夷征伐! アテルイ、大武丸との戦い! 歴史上、存在が確認できる黒人の侍は?

🟣蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東国(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道や樺太)などに住む人々の呼称である。

朝廷に抵抗した蝦夷は鬼と呼ばれていたとされる。しかしながら蝦夷と呼ばれた東北地方に住んでいた人たちが悪人だったと言うわけではない。

大和朝廷側から見れば日本統一を阻む敵だった訳であり、蝦夷の人から見れば大和朝廷側が自分たちを支配しようとする悪人だった訳である。歴史は勝者によって書き換えられる。勝てば官軍だ。

蝦夷征討のために坂上田村麻呂が遠征した東北地方には、神仏の加護で鬼を退治したという伝説(坂上田村麻呂伝説)が多く残されている。これは大和朝廷側の正当性を示す為に作られたストーリーだ。

蝦夷の首長として名前が残る大武丸は岩手県の岩手山の鬼であるという伝説がある。

岩手県奥州市で活動した蝦夷(えみし)の族長アルテイも大和朝廷から派遣された坂上田村麻呂と戦い降伏した。

ちなみに、坂上田村麻呂の父は坂上苅田麻呂、母は不明。

坂上氏は、前漢の高祖皇帝、後漢の光武帝や霊帝の流れを組む渡来人である阿知使主とその子都加使主の子孫を称し、坂上志拏のとき東漢氏より氏を改めたもの。

田村麻呂登場以前は地方豪族や下級官人であった。

●田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系として、数朝に渡り宮廷に宿衛して守護したことから武門の誉れ高く天皇の信頼も厚い家柄であった。

曽祖父の坂上大国は右衛士大尉として武官にあり、祖父の坂上犬養は少年期から武人の才能を讃えられて聖武天皇から寵愛されると左衛士督に昇り、父の苅田麻呂は武芸によって公卿待遇を与えられた。

●坂上田村麻呂の人物像。

「大将軍は身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(約36cm)。

向かいに立つと仰け反って視え、背後からみると屈んでいるように視える」と堂々たる容姿であった。

容貌は「目は鷹の蒼い眸のように鋭く、鬢は黄金の糸を紡いだように光っている。

重い時は201斤(約120kg)、軽いときには64斤(約38kg)のように行動は機敏であり、立ち振舞いは理にかなう。

怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」という。

🟣坂上田村麻呂には黒人説がある。

坂上田村麻呂黒人説は、平安時代の武官であり、征夷大将軍として蝦夷征討に功績を残した大納言坂上田村麻呂が黒人だったという風説である。

遅くとも1911年には北米において発生していた。この説は説得力のある証拠を何一つ提示できなかったにも関わらず、おもに黒人の学者のなかで21世紀に至るまで引用されており、古代日本におけるネグロイドの存在を証明するものとして考えられていた。

🟣日本史上、存在が確認される黒人侍は?

弥助(やすけ、生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した黒人である。

宣教師の護衛、従者、または奴隷として戦国大名・織田信長に謁見し、気に入られたことで彼の家臣として召し抱えられた。

本能寺の変では、信長と一緒に本能寺におり、明智光秀軍と戦った。

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