【貴重】力道山 vsドン・レオ・ジョナサン、シャープ兄弟、ルーテーズ、ザ・デストロイヤー、フレッドプラッシー、他

🟣力道山とは?

1924年11月14日 (諸説あり)- 1963年12月15日

プロレスラー・大相撲力士。

本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)。

旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(きん・しんらく、キム・シㇽラク、김신락、Gim Sillak / Kim Sillak)。

身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。

●略歴

朝鮮民主主義人民共和国生まれ。

プロレスラー。

17歳で大相撲二所ノ関部屋に入門する。

関脇にまでなるが、27歳の時に自ら髷を落とし廃業。

その後、プロレスに転進し、日本プロレスの基礎を築いた。

空手チョップで外国人レスラーを破る姿がテレビ放送され、全国的な人気に。

1963年WWA世界選手権でのザ・デストロイヤーとの試合は、平均視聴率64%を記録した。

日本プロレス界の父と呼ばれている。

🟣人物・エピソード

●性格・対人関係

粗暴な性格で、感情の起伏が激しかった。

機嫌が良いときはボーイに1万円札でチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。

1957年(昭和32年)10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった。

可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している。

粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。

また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で対戦した相手と仲良く飲んでいることから、八百長ではないかと疑われる要因が強まったともいわれている。

当時阪急ブレーブスに在籍していたロベルト・バルボンはテレビで力道山の試合を見て、チームメイトに「こういう素晴らしい試合のことを日本では八百長と言うんだ」と嘘の知識を教えられ、バルボンは報道陣のいる前で「リキ、八百長」と言った。

後日、これを伝え聞いた力道山本人が怒鳴り込んできて、バルボンは謝罪したが、事の顛末を聞いた力道山はバルボンと和解している。

金田正一とは友人関係だった。

●トラブル


力士時代、カツオ遠洋漁船「力道山丸」(40トン)の共同船主になっていたが、1949年、250万円の保険をかけた力道山丸が火災となり保険金詐欺疑惑が取りざたされた。

1950年6月、力道山は高知警察署で事情聴取を受け、保険契約は他の船主に利用されたものだと弁明している。

プロレスラーに転向後も粗暴な性格のため、多数のトラブルを引き起こしている。

例をあげると山口組ともめて監禁寸前にまでなったり、安藤組に対して誠実な対応を取らなかったため付け回され家に帰れなくなったり、フィリピンマフィアの顔役を橋から川に投げ込み揉めるなど、当時のプロレス興行が暴力団と密接な関係にあるにもかかわらず、配慮に欠けた行動を繰り返したため、命を狙われることも多かった。

相手が暴力団とはいえ、これらのトラブルの中には力道山が弁えていれば防げたものも多数あったと言われる。

●家系関連


プロレスラーの百田義浩、百田光雄は実息で、芸者・綾の息子である。

自らが朝鮮人であることは生前周囲に隠して生きており、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっている。

亡くなる10ヶ月前に結婚した田中敬子(元日本航空客室乗務員。

死後、百田姓から抜けた)はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったということである。

力道山は、最後の妻となった田中敬子に関しては余程惚れていたらしく、当時数多くあった女性関係を全て清算した上で結婚したと言われている。

1984年に週刊プレイボーイが、当時タブー視されていた力道山の民族出自問題を「もうひとつの力道山物語」として報じた。

それによると、力道山は15歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。その後、2002年の釜山アジア競技大会で、力道山の孫娘パク・ヘジョンが北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。

孫には百田力がいる。

●強靱な肉体


怪我をしてもすぐ出血が止まる体質だったようで、「額を割って血を流しても、ものの10分もすると赤チンをつけただけで血も出ていない」、「骨が見えるぐらいの傷なのにすぐ血が止まる」と剱持松二が証言している。

リキパレスでプロレスの試合が終わると、怪我したままの状態で「(リキパレスの別フロアのレストランで)『今日はひどかったねえ』なんて話をしながら(酒を)飲んでいる」というのが日常だった。

自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実であり、客人の前で馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の自動車から突き落としたりして、「強靱な肉体があるからプロレスラーはケロっとしている」というアピールを好んで行った。

また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したという。

大きいイメージを持たせるため、実際より4cm身長をサバ読みした。それによりその世代のレスラーは4cmサバ読みしていることが多い。

●弟子教育


力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。

力道山は、プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場をスター候補としてデビュー当時より特別扱いしていたが、猪木への対応は「靴べらで顔を殴る」「飼い犬を番犬として教育する際の実験台にする」「少年の猪木に一升瓶の日本酒を一気飲みさせる」「意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打する」「灰皿を投げつける」など、極めて冷酷なものであったと言われている(猪木自身が一部語り、古いスポーツ紙の記者もそれを書いている。

近年でも、当時は本気で殺意を覚えたと語る事も)。

その一方で、弟子の中で、力道山が本心から一番可愛がっていたのは馬場でも猪木でもなく、同じ朝鮮半島出身の大木金太郎であったともいう。

可愛がっていた馬場にさえも、トレーニングで弱気な発言をしても我慢を強要するなど、横暴な一面があったが、それでも弟子の教育に合理的な面があったようで、一度目のアメリカ武者修行で大成していた馬場が、アメリカ側から催促されていた時に、「お前だけすぐにアメリカに出したら周りの奴に妬まれる」と時間を置いて出発させたという馬場自身の証言があり、まだ付き人だった猪木には「ウェイトが100キロを超したら武者修行に出してやる」と約束していたという。結局、力道山の生前には猪木のアメリカ修行は無かった。

ただ、力道山の妻である田中敬子は、「主人が自宅に呼んでいた若手選手は、猪木さんだけ」「部屋に猪木さんを呼ぶと肩を揉ませていたんですが、その時にプロレス以外の事業、仕事の打ち合わせをしたり書類を読んだりしていて、インタビューも猪木さんがいる前で何度も受けていましたね」として、猪木にだけわざと事業家としての側面を見せていたことなどを明らかにしている。

猪木が理不尽に殴られていた点についても「自分の息子に対する教育もスパルタ」「(猪木も)息子と同じように思っていたから、指導が厳しくなってしまった側面もあるのでしょう」と語り、ある種の愛情の裏返しであったとしている。

力道山はトレーニングと言えばベンチプレスと腹筋と足の運動(現代で言うヒンズースクワット)の3つが基本と考えていた。また、筋肉を大きくしたい部位があるという弟子の希望を聞けば、一定期間中ずっと特定の部位のみを鍛えるように命じていた。

日本プロレスのボディビル練習生としてトレーニングを開始した新間寿は、胸と腕の筋肉を大きくしたかったところ、力道山から「3ヵ月間、オマエはベンチプレスだけをやれ」と命じられ、当初40kgも上がらなかったウエイトが55kgまで上がるようになった(当時はベンチプレスが一般に浸透していなかった)。

一方で体を大きくするための手法の一つとして相撲の稽古が有効だと考えていた節もあり、刺殺事件の当日には、猪木を当時の高砂部屋(4代・元横綱前田山の時代)に一時的に入門させる話までまとまっていたが、急逝のためその話は消滅したという。

●プロレス界への貢献


力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、プロレスラーとしては比類のないスター性とカリスマ性を備えており、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いない。

生前は朝鮮人であることがほとんど知られておらず、彼の相手レスラーを空手チョップで殴打する時の口癖が「この、朝鮮人野郎」だったこともあり、白人レスラーを次々と倒す姿は、敗戦後の日本人の一種愛国的な感情をも揺さぶった。

「総理大臣の名前は知らなくても、力道山の名前を知らない者はいない」とされ、テレビの普及にも大きく貢献があった。

またバックに就いていた東声会は、力道山のプロレス興行により莫大な富を手にすることともなった(ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」など)。

死去した日と同日に4代目の鈴々舎馬風が中風で死去したが、スポーツ紙の一面が力道山の死で埋め尽くされたため、一段のベタ記事扱いとなった。

しかしそれを枕にした落語家はいなかったという。

プロレス界での功績は海外でも称えられ、2011年にはNWA殿堂、2017年にはWWE殿堂のレガシー部門に迎えられた。

●実業家として

↑ リキマンション(北緯35度40分17.4秒 東経139度43分49.3秒)
壁面に力道山のイニシャル「R」が描かれている。2021年7月時点で現存している。


実業家としても成功し、赤坂に自らの住居も兼ねた高級アパートの「リキ・アパート」、ナイトクラブの「クラブ・リキ」、さらに「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。

1973年に自殺した俳優の大辻伺郎も晩年にこの「リキマンション」に住んでいた。

渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。ボクシングジム経営にも進出している。

死の少し前には、相模湖畔に、自動車レース場・射撃場・室内スケートリンク・モーテル等レジャー施設を併設した大規模なゴルフ場、「レークサイド・カントリークラブ」の建設を始めていた。

広大な土地を購入し、会員権を販売し、一部工事にも取りかかったが、死去により未完に終わった。跡地は売却されて、現在、さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト(旧称・さがみ湖ピクニックランド)となっている。

また、三浦半島の油壺にも土地を購入しており、家族で楽しめるマリンリゾートの建設を計画していた。

●趣味


趣味は狩猟などの他、一時期将棋に興味をもった時期があり、プロ棋士の剱持松二らと親交があった。剱持からはアマチュア三段の免状を授与されているが、実際は「ほとんど指していなかった」とのことで、実力がどの程度だったかは不明。

●その他エピソード


トレードマークである黒タイツは、二所ノ関部屋所属時代、弟子であった若ノ花勝治が力道山のシゴキに耐えられず、力道山の太ももに噛み付いた時に出来た古傷を隠すためだったともいう。

若ノ花も後年、力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。

1955年(昭和30年)にプロレス興行で福島県会津若松市を訪れた際、七日町の肉屋で生の馬肉を注文し、持参した唐辛子味噌を付けてその場で食べた。

福島県会津地方では生の馬肉を食べる習慣は無かったが、この出来事をきっかけに馬刺しを唐辛子味噌で食べる風習が広まった。

次男の百田光雄によれば、「亡くなった時には不動産の所有資産が多かった。その一方で多額の債務もあった」という。

力道山没後の相続税について光雄は「(当時の貨幣価値で)20何億ものの税額だった」と語り、力道山の個人遺産は全て国に召し上げられたという。

🟣日本プロレス黎明期 〜 力道山 vs シャープ兄弟、ルーテーズ、ザ・デストロイヤー他

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🟣力道山 vs ボボ・ブラジル

🟣力道山 vs フレッドプラッシー

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●力道山 vs ドン・レオ・ジョナサン

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