【貴重】狂乱のまだら狼 上田馬之助さんの素顔に迫る! インタビュー動画! アントニオ猪木戦 (日本初のクギ板デスマッチ)! 大木金太郎戦(インターナショナル選手権)! 古舘さんが思い出を語る!

🟣上田馬之助さんとは?

上田 馬之助(うえだ うまのすけ)

プロレスラーのリングネーム。

同名を名乗ったプロレスラーは過去に2人存在する。

初代 : 元日本プロレスのプロレスラー。本項で詳述。


2代目 : プロレスリングFTO所属のプロレスラー。

●上田 馬之助(うえだ うまのすけ)

1940年6月20日 – 2011年12月21日

愛知県海部郡(現:弥富市)出身のプロレスラー、元大相撲力士。

本名:上田 裕司(うえだ ひろし)。

大相撲時代は追手風部屋を経て間垣部屋に所属、海部錦(あまにしき)の四股名で最高位は序二段19枚目。

プロレスラーとしては長年、ヒールとして活躍。頭髪をまだら金髪(その後すべて金髪)に染めた姿から「まだら狼」「金狼」などの異名を持った。

🟣訃報を伝える記事↓

昭和の名悪役・上田馬之助さん急死 

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.sponichi.co.jp/battle/news/2011/12/22/kiji/K20111222002289720.html%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

🟣上田馬之助の人物像

●常に竹刀を片手にし、レスラー人生の大半を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。

力士時代に毛筆(相撲字)の訓練を受けたために能筆としても知られており、サインを求められた時には筆と墨を用いて色紙に書くことに拘った。

これについて上田本人は「私はマジックでサラサラと書くなんてことは出来ない男ですから」と語っていたという。


その達筆もあったためか、上田は筆まめという一面もあった。

日本プロレス時代に長期海外遠征を行った際には、親しい記者などに達筆で丁寧な文体で書かれた近況の手紙を定期的に送っていたという。

その内容は現地のリアルタイムなプロレス事情を知るネタ元として、プロレス担当記者から重宝された。


サインの筆跡を似せるほど力道山に傾倒し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。

「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「統一コミッショナーの下、プロレスにライセンス制度を復活させるべきだ」というような発言もしている。


少年時代の米良明久(後の高千穂明久 / ザ・グレート・カブキ)が力道山に日本プロレス入門を直訴すべく、故郷から上京して当時東京・赤坂にあった日本プロレス合宿所を訪問した際、米良少年に応対したのは当時若手レスラーだった上田で、上田は米良少年に「(合宿所に)一晩泊まっていけば力道山先生に会わせてやろう」と言ったという。


●1968年1月3日に行われた国際プロレス(当時はTBSプロレス)との興行戦争の直後に、ベースボール・マガジン社に立ち寄り、『TWWAプロレス中継』初回放送であるグレート草津VSルー・テーズをテレビで観戦した。

その際、草津に対して「草津の試合ぶりはプロとして恥ずかしく、しかも動きが幼稚」などと酷評する低評価を与えた。

草津とは、1976年から1979年までシングル・タッグで対戦した。

●国際プロレス 1979年04.18 ラッシャー木村、グレート草津 VS 上田馬之助、マサ斉藤

●国際プロレス 1979.09.14 ラッシャー木村、グレート草津VS上田馬之助、ジョー・ルダック


●全日本プロレスを離脱してフリーとして渡米した理由を「前座扱い」としていたが、親しいプロレス関係者には、プロレス草創期からの日本プロレスのレフェリーだった沖識名がハワイへ帰国する際に、全日本プロレスが沖識名の「ありがとう興行」を実施したのに、全日本サイドが売上から餞別を沖識名に一切渡さなかったため(上田と松岡巌鉄が自分のファイトマネーの中から沖識名に餞別を渡した)、「馬場は沖さんに昔からあれだけ世話になったのに…… 恩知らずじゃないか」と激怒したことがきっかけだったと語り、後にその逸話はプロレス雑誌に紹介された。


フリー転向後に主戦場としていたオクラホマ地区には、デビューして間もない頃のスタン・ハンセンとフランク・グーディッシュ(ブルーザー・ブロディ)も出場していた。

上田は若く貧しかった彼らに目をかけ、モーテルの自分の部屋に泊めたり、食事を御馳走したりしていたという。

●馬場対ハンセンの試合で、ハンセンのセコンドにつく上田馬之助さん。フルバージョンの動画↓

https://m.youtube.com/watch?v=AlmyBOwYIYQ


●アナウンサーの徳光和夫とはお互いの若手時代から親しい関係にあり、徳光は上田のことを「馬さん」と呼んでいた。

上田が大事故による障害を負った後に日本テレビの『24時間テレビ』に出演した際、徳光が「馬さんもこんな辛いことになってしまって…」と語りかけると、上田も眼を潤ませながら「徳光さん、私は大丈夫です。元気ですよ」と応じた。


●プロとして見られることを常に意識し、ライバルを問われた際は「お客さん」と答えた。


「プロレスを経験したことのない人間は裏方に徹するべき、出しゃばるべきではない」が持論であり、インタビューで馬場元子と新間寿を「出しゃばり過ぎるし、何か勘違いをしている」と公然と批判したこともあった。


●1976年の国際プロレス初参戦時に、上田は親友のリップ・タイラー&エディ・サリバン、そして『国際プロレスアワー』の解説者だった門馬忠雄と4人でホテルで酒を飲んでいた。

そこへ酔っ払ったグレート草津が帰ってきたが、散々愚痴をこぼす草津に門馬が「ラグビーなど捨てて、プロレスラーらしくなれ」と発言したところ、草津は激怒し、門馬をネック・ハンギングで吊り上げた。

その際、上田は「お前、やめろ!」と草津を制止したという。


●場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老女を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。


●徹底したヒールのキャラクターを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。

プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。

しかし、施設慰問を続け「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。

施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。


●甥は漫画家のくぼやすひと(漫画家ユニット:久保マシンの男性「くぽりん」)である(上田の実姉の息子がくぼやすひと)


●また茅ヶ崎のダウン症の子供たち向けに焼き物を作ることを通して、コミュニケーション能力を教えている施設の遠足会には「荷物持ちのおじちゃん」として参加。

川原でのバーベキュー等でも活躍。


以上のことから家族にアンチファンからの危害が及ぶことを懸念して、アメリカ合衆国フロリダ州ペンサコーラに移住していた時期があると言われていたが、実際は全日本プロレス退団後アメリカで一匹狼としてやっていかざるを得ない状況となったため、1974年6月に家族を呼び寄せた。


入場時には、スポンサーであるキャピタルエース(合同商事)のジャージを永年着用していた。


●1980年代前半、アメリカのWCCWやガルフ・コースト地区では顔に「天」の字をペイントした「テング」なるペイントレスラーに変身して活動していた。

当時WCCWで上田と一緒だった桜田一男によると、「テング」のアイデアはザ・グレート・カブキのマネージャーだったゲーリー・ハートによるものだという。

全日本プロレスでもカブキとのシングルマッチにおいて、このギミックで試合をしたことがある。


●NOW参戦時、アメリカから前妻との息子が大学の長期休暇を使って日本に来ていた際、プロレスラーとして限定参戦させていた(リングネームは「ヒロ上田」最初だけ「上田馬之助Jr.」だった)、なお幼少の頃から父の手ほどきを受けていたのと、大学ではアマレス・アメフトの選手でレスラー並の体格だった。


●引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員が死亡し、その話を聞いたときは「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若い奴が死ななきゃならないんだ」と号泣したという。

上田と営業部員はIWAジャパン本隊よりも2人で先に仙台を出発していた。

後にIWAジャパンの営業部員の追悼興行が営業部員の出身地である大分県別府市で行われた。


●交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。

また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めていた。


●外国人レスラーのギャラが日本人レスラーより極端に偏っていたことに警鐘を鳴らしていたことでも有名で、上田のギャラは相方のタイガー・ジェット・シンと比べ物にならないくらい安かったという。


●上田馬之助はSWSが失敗した原因について、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。


●5歳のときに手品師のまねをしようとして左耳に大豆を入れたのが原因で鼓膜を失い、それ以降左耳は全く聞こえない状態だったという。

また右耳もその後中耳炎を患ったため聴力が低下しており、聴力にかなりのハンデがあったが、現役時代はそのことを伏せて戦っていた。


●深夜、出待ちの中学生に隠し撮りをされたことがあった。

気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けたという。


●上田が新日正規軍から離れセミリタイヤ状態となった後、新日本は「ニューリーダー対ナウリーダー」という世代闘争に入ったが、ある時上田が突如会場に現われ「何がニューリーダーだ、お前らの立場を考えろ」というマイクアピールを行った。

この模様は「言いたいことだけ言って上田は去っていった…」という見出し付きで、当時の週刊プロレスの表紙を飾った。

後日の同誌のインタビューでは「団体に育ててもらい、今も世話になっている身で、それに刃向かうべきではない」とニューリーダーの姿勢を批判、さらに「そんな人間を勘違いさせる、おたくらマスコミも悪い」とも語っていた。


●1990年頃の週刊プロレスのインタビューで、初代タイガーマスクのことを「お子様ランチ」と言い、初代タイガーの登場以降プロレスを好きになる世代が広がり、それに合わせるようにプロレス自体が空中技や派手な技に片寄りつつある中、プロレスの凄味はもっと違うところに有ると警鐘を鳴らしていた。


●落語家・立川談之助に名前を使われ、「高座で俺の名を騙(かた)っている奴がいる」とクレームを付けたことがあったという。

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