【タブー・プロレス事件簿】北尾光司 vs ビッグ・バン・ベイダー、高田延彦、ジョン・テンタ、北の湖戦! 八百長発言をしたテンタ戦の船木誠勝の証言! 横綱失踪事件、引退会見!

🟣横綱を廃業し、プロレス界入りした北尾光司さんが2019年に亡くなられた。55歳だった。ご冥福をお祈りいたします。

かつて北尾光司さんと戦ったバンバン・ビガロやビッグバン・ベイダー、ジョン・テンタも亡くなってしまった。。。。

🟣北尾光司 vs ビッグ・バン・ベイダー (1990 5/28 大阪)

https://m.youtube.com/watch?v=k1S3VFMiTOI&feature=emb_title

🟣高田延彦戦

🟣ジョン・テンタ戦 一戦目

🟣ジョン・テンタ 2戦目、試合後、八百長発言があった試合!

🟣ジョン・テンタ戦後の控え室にいた船木誠勝の証言

🟣ジョン・テンタ戦

🟣北の湖から金星

🟣横綱失踪事件、引退会見

🟣貴重な映像 北尾特集

🟣北尾光司さん(第60代横綱・双羽黒)死去 波乱の人生に幕 写真館動画【日刊スポーツ】

🟣【追悼】北尾光司とは?

●幼少期から角界入り、横綱昇進、プロレス入り、死にいたるまで

北尾 光司

1963年8月12日 – 2019年2月10日

三重県津市出身

元大相撲力士・元総合格闘家・元スポーツ冒険家・武道家、元プロレスラー

大相撲横綱時代(第60代横綱)の四股名は双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。

🟣角界入り

幼少期に父親の影響で柔道を始めたが、津市立敬和小学校に土俵が完成してからは毎日のように相撲を取って相撲が徐々に好きになり、地元の商店街で出場を勧められた相撲大会で優勝してからはさらに好きになった。

次第に対戦相手に困るようになると、立浪部屋後援会会員の中にアマチュア相撲三段の腕を持ち、「津相撲クラブ」の責任者を務める人物から指導を受け、東橋内中学校へ入学して以降は立合いの当たりで対戦相手を土俵下まで吹っ飛ばすほどの実力を付けた。

指導者の協力で、毎年の夏休みには立浪部屋へ泊まり込みで稽古し、6時に起きて周辺を5km走るのも絶対に欠かさなかった。

中学入学後は同じ中学生に十分な相手がいなかったために三重高等学校へ出稽古に出かけたが、高校生を相手に全く負けず、3年生の夏休みに相撲教習所で行われた日本相撲協会指導普及部の進級試験兼各支部対抗試合でも優勝し、中学校には相撲部や土俵が無かったために無名だったが、角界でたちまち評判になった。

両親はそのまま三重高等学校への進学を願ったが入門の意思は変わらず、「5年で関取になれなかったら帰る」との条件付きで、中学卒業と同時に立浪部屋に入門した。

幕下時代には後援者と食事をした時に、自身の大好物であるステーキを3000g食べたかと思うと、直後に中華丼・天津丼・オムライス・炒飯・チャーシュー麺・冷やし中華・カツ丼を次々に注文しては殆ど完食するほどだった。

リーチを生かした突っ張りから右を差して左おっつけから上手を引く相撲が北尾の型で、相手によっては頭をつけることも厭わず、寄り、上手投げ、掬い投げを得意とした。

ほぼ2mの長身でありながら腰高や脇甘は顕著でなく、機敏さもある程度持ち合わせていた。がっぷりに組めば、当時の第一人者であった横綱・千代の富士をも苦しめることがあり、外四つになって肩から覆いかぶさる相撲や喉輪でも力を発揮した。

🟣度重なるトラブル

しかし、父親が建設会社の取締役で北尾はその一人息子として甘やかされて育てられたためか、少しでも厳しい稽古をさせると「痛い、痛い」と音を上げる癖があった。

さらに口癖のように「故郷へ帰らせてもらいます」と発言し、6代立浪も北尾に対してではなく稽古を付けた兄弟子を注意する始末だった。

黒姫山はこれに関して「幕下までは技術面に関しては手取り足取り教えますけど、関取になってからは口を出すこともない。

ましてや私生活の面は、稽古が終われば僕たち親方衆は自宅へ帰ってしまいますから分かりませんからね。そのうち気が付けば、師匠が北尾に対して、腫れ物に触るかのような接し方をするようになっていて、僕らからも何も言えなくなってしまった」と後年語っている。

そして、椎間板ヘルニアで途中休場して入院した時は、6代立浪への不信感を抱いて本当に故郷へ帰ってしまった。これに怒った父親が北尾を追い返すと、6代立浪は罰として一年間の便所掃除を命じた。

さらに鞭打ち症で途中休場して伊豆へ温泉治療に行った際には、伊豆で廃業を決意して友人の家に行ったが立浪にすぐ発見され、懇々と諭されて連れ戻された。

酷い時は稽古をサボって喫茶店に行くこともあったが、6代立浪が注意しないために誰もが見て見ぬふりをしていた。だが、高砂部屋への出稽古通いや隠れ稽古に関しては絶対に欠かさなかったという

🟣師匠らと衝突、突然の廃業

1987年12月27日、6代立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、そのまま「(破門同然の)廃業」という事態になった。

発端は、同日の夜に部屋の若い衆が「『あんなちゃんこが食えるか』と横綱(双羽黒)が言っている」と6代立浪に言いつけたことだった。

6代立浪の主張によれば、ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に入った女将を突き飛ばし、「二度と戻らない」と言って部屋を出て行ったという。

一方、北尾は著書で「ちゃんこが美味い・不味いの問題ではなく、若い衆が料理を作れないほどたるんでいることで、日頃から親方に再三指導するよう求めてきた。その日もその事を言ったら全く取り合ってもらえず、果てには逆に若い衆に謝罪するよう求められた。それが納得できず、部屋脱走を試みるも女将が止めに入ったため、それを振り切る形で部屋を後にした。すると親方がそれを見て『暴力を振るった』と新聞記者を煽って大騒ぎになった」と主張している。

後年、北尾が亡くなった際には主要な一般紙の多くが「ちゃんこの味付けを巡って衝突した」という6代立浪の主張について触れておらず、その説を支持も否定もしていない。

ただ、日本経済新聞、朝日新聞などは女将を突き飛ばしたという主張を肯定している。

部屋を出て行った双羽黒は都内のマンションの一室に籠城していたが、部屋付きの11代武隈が見つけて部屋に戻るように説得するも失敗、その間6代立浪が協会へ双羽黒の廃業届を提出した。

この事態を受け、同年12月31日に緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業届を受理することを正式決定した。

同日夜、双羽黒は緊急記者会見を開き、「私はもう相撲界に未練は無い。相撲は好きだが、幕下の時から相撲道の違いで(師匠には)とても付いて行けない(と思っていた)。『横綱』の名を汚したことは公私共に良くないが、人間として自分を貫いた」と述べ、正式に廃業を発表した。

今後のことを問われると「実業家にもなりたいが、タレントとしてもやっていく。

取材ならギャラを払ってほしい」と発言し、周囲だけでなくマスコミ関係者からも大バッシングを受けた。

また、ニューヨーク・タイムズには「日本人にとって怒りを爆発させることは無作法であり、無礼者は面目を潰される」と評論されたほど、世界を騒がせたニュースとなった。

既に発表されていた1988年1月場所の番付には、双羽黒の名が東張出横綱に残っていたが、横綱在位数は僅か8場所(番付上では9場所)と、琴櫻・三重ノ海と並ぶ最短記録2位タイの短命横綱に終わった。

ケガや体力の衰えで引退したのではなく、師匠と喧嘩した挙句の廃業とあって世間の見方は非常に厳しく、双羽黒への同情論はほとんど聞かれなかったものの、野坂昭如など僅かに双羽黒を支持する者もいた。

1988年3月には東京都内のホテルで断髪式が行われたが、同年3月場所の直前だったため関係者や後援会からは一人も出席せず、最後の止め挟を入れたのは父親だった。

この廃業が事実上の「破門」であることは、6代立浪と双羽黒の双方が認めている。

🟣事件の影響〜横綱昇進基準の厳格化

この事件を受け、双羽黒の横綱昇進の判断が結果的に甘過ぎたという反省から、「大関の地位で2場所連続優勝」という横綱昇進内規(横綱審議委員会内規第2項)が厳格に適用されるようになり、その後、四半世紀にわたって「2場所連続優勝に準ずる成績」(横綱審議委員会内規第3項)で昇進に至る例は一切無かった。

特に、小錦と魁皇の二人は、1987年以前に昇進した横綱と同等の成績を挙げていたにも関わらず、昇進は果たせなかった。また、旭富士・貴乃花・白鵬のように、後に横綱昇進を果たしているが、それ以前に「2場所連続優勝に準ずる成績」を挙げながら「2場所連続優勝」の内規を満たしていないとの理由で見送られたケースも多かった。

🟣スポーツ冒険家時代

大相撲廃業後には二輪免許を取得し、プロレス入りまでの間はボクシング・アメリカンフットボールなどのオファーを断って「スポーツ冒険家」という肩書きでタレント活動を行った。

テレビや週刊誌の取材にも応じ、「相撲は自分のビジネスの一つ。未練は全くない」と語っていた。

週刊プレイボーイ・ビッグコミックスピリッツ(新感覚人生相談 綱に訊け!)では人生相談のコーナーを担当し、「『大相撲を辞めたからプロレスに行くだろう』とか思っているかもしれないが、そんな安易な考えはない」と語っていた。

とはいえ、北尾の進むべき道を「プロレスしかない」という見方が世間では根強かった。

そんな中、スポーツ冒険家の仕事でアメリカ合衆国のプロレスラー養成所の一つである「モンスター・ファクトリー」を訪れたところ、同行していた東京スポーツの取材に対し「やるなら外人と同じように1シリーズごとに契約という形だね」と初めてプロレス転向に色気を示す発言をした。

その場では進展こそなかったが、この発言によって急速にプロレスへ傾倒していく。

🟣プロレス時代

新日本プロレス

大相撲での電撃廃業から約2年後の1990年2月10日、東京ドーム大会でのプロレスデビューが発表された。

北尾曰く「アメリカで数ヶ月間みっちり修行を重ねた」という触れ込みで帰国し、その際にルー・テーズの指導も受けており、北尾は「僕の(プロレスの)師匠(と呼べるの)はルーお父さん」と語っている。

リングネームは、自身が考案した「サンダーストーム北尾」を希望していたが、実際には使用されず本名でデビューする運びとなった。

ただしこれは具体的に検討されていたらしく、オリジナル技の名称や入場曲(曲の途中「Break down Thunder Storm…」というコーラスが入る部分がある)に名残がみられる。

デビュー戦の相手は、巨体ながら優れた運動神経を持ち、全身にタトゥーを刻んだインパクトのある外見で人気を博していたクラッシャー・バンバン・ビガロが選ばれた。

「プロレスラー・北尾光司」の初披露はデーモン小暮閣下に作曲を依頼した入場テーマ曲「超闘王のテーマ」が流れ、次々とスモークが吹き上がりスポットライトが多く照らす中、派手なコスチュームに身を包んだ北尾が現れるという、新人としては異例といえるほど非常に豪華なものだった。

この際に着用していた、リベットなどで装飾を施し、超闘王式ベルトというものを装着した、独特のデザインの革製ジャケットは、北尾が漫画「北斗の拳」の大ファンだったことを受けて制作した特注品だという。

リングに上がった北尾は黄色いタンクトップを引き裂くパフォーマンスを見せ、しきりに声を上げては決めポーズを取るアメリカンプロレスを意識したプロレスを展開、デビュー戦を勝利で終えた。

この試合でのフィニッシュ技はギロチン・ドロップで、試合運びやパフォーマンスは世界的人気レスラーであるハルク・ホーガンを意識したものだった。

それでいて自信満々の態度で入場して相手を挑発し、勝利して意気揚々と引き上げる態度と言動によってプロレスファンの失笑を買い、なかには「帰れ」コールまで起きた。

🟣北尾に対する酷評

北尾の数年前に全日本プロレスでデビューした輪島(第54代横綱)にも同様の特別待遇が見られた。

38歳でのプロレス転向を「無謀」であるとすら言われていたが、輪島本人は横綱のプライドを捨てて努力をしており、大相撲ファンからも同情されて温かい目で見守られた。

しかし北尾は20代半ばと若く、下積みの努力をすれば本格的なレスラーとしても通用すると認識されていただけに、相撲廃業時と同様に厳しい目に晒される結果となった。

大相撲廃業前から稽古嫌いで有名だったが、プロレス転向後も練習を嫌がりたびたびトラブルを起こした。

対戦相手に恵まれて勝利を収めるものの、デビュー戦から改善が見られない単調な試合運びはプロレスファンの間で冷評され続け、「(北尾は)しょっぱい」という声が上がり始める。

やがて、観客から激しいブーイングや強烈な野次が浴びせられ、対戦相手の二級外人レスラーに応援コールが沸き起こる始末だった。

さらに北尾がその厳しい評価に対して不満を露わにしたり、ブーイングに対して口汚く言い返すなどの不遜な態度でますますファンの反感を買っている。

当時、シングルとして発売された「超闘王のテーマ」のキャンペーンで中日スポーツの取材に応じた北尾は「自分の試合が早く終わるので、客はそれに不満に思ってブーイングが起きる」という持論を展開している。

しかし解説者からも「存在自体がヒール」と評され、ファンのみならず対戦レスラーの間でも不満の声が上がり、露骨に北尾を軽蔑した態度を取るなど、リング上でも不穏な空気が流れるようになった。

北尾は受け身の技術に難があったため、特定の技をかけられることを極度に嫌い、これが技を受けない姿勢に拍車をかけた。

そしてある試合中、ブレーンバスターをかけられた際に恐怖心から無理な体勢で着地して腰を強打、負傷する。

このアクシデントの後、北尾は「今日は腰が痛い」「体調が良くない」など理由をつけては練習をサボるようになり、また地方巡業に帯同しながらも決まっていた試合を当日になって突然欠場を申し入れたりするなど、大相撲時代と同様の「練習嫌いの問題児」の悪名を響かせ始めた。

その後、新日本の現場責任者とマッチメイカーを務めていた長州力と激しく対立すると、北尾のあまりに怠慢な態度に業を煮やした長州が発した「プロレスラーは常に多少なりとも故障を抱えて試合に臨んでいる。

フロントがどう言おうと、練習しない奴は試合で使わない」という言葉に対し、北尾は「何か文句があるなら勝負(喧嘩)して、負けたら言うことを聞く」という暴言、さらには民族差別発言によって新日本プロレスから契約解除を言い渡された。

北尾が辞める際には当時社長だった坂口征二が同席しての記者会見が開かれ、

  1. デビューは新日本プロレスだが実際には所属選手ではなく専属フリー契約扱い(「アームズ」という芸能事務所に在籍)だった。
  2. そのために北尾は新日本の社員として扱われる他の所属選手と違って、個別にフロントとの交渉を行っていた。
  3. 待遇面に関しても新人選手ではなく所属選手と同等、もしくはそれ以上の扱いを受けていた。

など数々の内部事情が明らかにされた。

それらの情報を公表した新日本は「トラブルなどによる解雇ではなく、本人の十分な同意を得た円満退社」という旨のコメントを出している。

長州は後にインタビュー記事で、「どの団体が獲得しても、北尾は必ず同じトラブルを起こすぞ」という旨の発言をしており、それはさほど時を要さず現実のものとなってしまった。

なお、北尾の退団後に新日本プロレスに大相撲出身の安田忠夫(元小結孝乃富士)が入団した際、北尾を特別扱いしトラブルとなった反省から、安田を特別扱いせず、新弟子扱いで所属選手として一から厳しく鍛えなおす方針に変更している。

🟣SWS移籍

新日本プロレスから専属フリー契約を解除された北尾は、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼って創立間もないSWSへ参戦。

参戦早々に行われた道場マッチでは対戦相手の大矢健一(現:大矢剛功)をKOし強烈なインパクトを与え、SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年3月24日に行われたレッスルマニアVIIに天龍とタッグを組んで出場する等、活躍を期待されたが、それから間もない同年4月1日に行われた神戸ワールド記念ホール大会での、同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク、元幕下・琴天山)との第2戦目のシングル試合中、トラブルを起こす。

この試合では北尾は試合当初から不満げな表情を浮かべ、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対しロックアップすらせず、目潰しのポーズをとって威嚇する俗にいう「シュート」を仕掛けた。

この目に余る態度にテンタは激高、逆に北尾をレスリングの技術で投げ飛ばし優勢に立つ。

その後、攻めあぐねた北尾は実際に目潰し(未遂)を行い(サミングではなく人差し指と中指を突き出した非常に危険な行為。テンタが避けたため未遂に終わる)試合は完全に進行不能となる。

そのまま両者ともに臨戦ポーズをとりながらにらみ合いの硬直状態が続くが、注意へ近づいたレフェリーに北尾がローキックを浴びせ直後に反則負けが宣告された。

北尾は反則負けを宣せられた挙句、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言。

さらに観客に向かって「お前らこんなもの見て面白いのか!」と叫んだ。

観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼する北尾の姿はプロレス業界全体を騒然とさせたが、北尾本人はこの直後に満足気な態度で「どうだ、盛り上がっただろう?」と話している。

その後は「北尾事件」としてプロレス誌だけでなく一般週刊誌もスキャンダラスに報じ、天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と当時就いていた3つの役職(取締役・「レボリューション」道場主・理事会長)に関し田中八郎社長に辞表を提出(田中は慰留)。

ザ・グレート・カブキが「北尾復帰戦はオレがやる」と発言するなど、波紋と代償は大きかった。

団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾を解雇する決断を下した。

この決定には北尾も「仕方ありません」と受け入れざるを得なかった。

北尾の没後、当時控室にいた船木誠勝が動画サイトで舞台裏を証言している。

それによると、試合直後の控室で一連の言動を注意した現場監督の田中社長夫人に対し、北尾が罵声を浴びせた上に椅子を投げつける暴挙に及んだという。

椅子が直撃していれば怪我では済まなかったこの行為に、船木は例の発言よりも悪質だったと述べている。

また田中社長本人はこの日を境にレスラーへの態度を一変させてしまったという。

この件については当時は報じられていなかった。

なお、藤原喜明の証言によると、SWSサイドでは北尾を一旦解雇した後、プロフェッショナルレスリング藤原組のリングで復帰させるプランを考えており、田中社長同席のもと、藤原が北尾と面談したが、北尾が挨拶もそこそこにノートパソコンを取り出し「私はこう言う感じで(試合を)やりたい」と自分の売り出し方をプレゼンテーションし始めたので、呆れた藤原がその場で帰ってしまい藤原組での復帰は無くなったという。

新日本プロレス、SWSと立て続けに解雇となったことで、大相撲だけではなくプロレス界でも「復帰は難しい情勢であり、事実上の永久追放」と見る関係者も多かった。

🟣復帰と引退

SWSを解雇された北尾はしばらくの充電期間の後、「空拳道」の師範、大文字三郎を伴って謝罪会見を開き、その場で「武道家の道を歩みたい」と宣言、総合格闘家への転向を発表した。

しかし当時は総合格闘技路線の試合を組む団体は少なく、この後およそ1年にわたり北尾は移籍先を探して奔走することとなった。

それから約1年後の1992年3月、UWFインターナショナルが北尾の参戦を発表、マット界への復帰が正式決定した。

Uインター側は当初、何かと悪評がついて回る北尾の起用に消極的だったが、同団体のプロモーション業に携わっていた宮戸優光が「北尾は道場に通うようになってから礼節が身につき、人間的に落ち着いたようだ」という話を耳にし、ワンマッチ契約の条件付きで参戦が決まったという。

そして同年5月8日、Uインター横浜アリーナ大会で山崎一夫と対戦し北尾が勝利を収めた。

この試合直後に北尾は山崎との再戦について問われ、「勝負がついた相手(山崎)とはもうやらない。次はもっと強い相手がいい」と語り、山崎を格下扱いする発言だとマスコミに書き立てられる結果となった。

しかし実際は、北尾のヒール的なイメージを利用して次の高田戦を盛り上げようとした意図的な発言だったことが後年に様々な文献で明らかにされている。

山崎戦から約半年後の10月23日、北尾は日本武道館で高田延彦との「格闘技世界一決定戦」と銘打たれたビッグマッチに臨む。

この試合は当初、山崎戦と同じ時間無制限一本勝負と予定されていたが、「北尾の代理人」を名乗る人物が強硬な態度でこれを拒否、試合直前になって3分5ラウンドの変則ルールに変更された。

この他にも北尾側は理不尽な要求を繰り返し、試合直前になってもブック(試合の筋書き)についてクレームをつけて試合放棄をほのめかしたため、交渉役を務めていた宮戸が北尾の控え室へ駆け込んでいき怒声を上げたという逸話が残されている。

結局この試合はブックの了承も不透明なまま開始され、北尾は3ラウンド46秒に高田が放ったハイキックを顔面に受けダウン、KO負けを喫した。

諸説あるがこのハイキックは高田側が意図的に行った「ブック破り」で、本来は判定による引き分けに終わるはずだったとされている。

この一戦は、過去の北尾の言動を快く思わなかったプロレスファンの溜飲を下げ、前田日明と比較して目立たなかった高田の名前を上げることになり、北尾に対する幻想は大いにそがれることとなった。

しかし、総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる、前述の山崎戦では試合直後、ダウンしている山崎にも一礼するなどの謙虚さを見せて、過去を知るファンを大いに驚かせた。

1994年には格闘技塾「北尾道場」(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍源一郎率いるWARを主戦場にした。

この時期の北尾はプロレスもある程度そつなくこなせ、ファンからも声援を送られるようになり、天龍とタッグを組むことも多かった。

しかし、前述のジョン・テンタとの数年ぶりの再戦がWARの興行で行われた際は、終始いきり立って格闘色の際立つ展開となってしまい、呆気ない幕切れとなった。

初期のPRIDEやUFCにも参戦しており、1996年4月5日に行われた「第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング」では、ペドロ・オタービオと対戦して1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗れた。

同年5月17日に行われたUFC 9では、 マーク・ホールと対戦、鼻の骨折によるドクターストップで敗れた。

1997年10月11日にはPRIDE.1においてネイサン・ジョーンズと対戦、総合格闘技戦で初勝利を挙げる。

1998年5月1日に開催された全日本プロレス・東京ドーム大会では、同じ大相撲出身の田上明とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル。

その後「やりたいことをやり終えた」として現役引退を表明し、同年10月11日のPRIDE.4で引退セレモニーを行った。

武輝道場は、当時所属選手の岡村隆志が引き継いだ。

🟣角界復帰、晩年、死去

プロレスの引退から5年後の2003年、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、代替わりした第7代立浪部屋のアドバイザーに就任。

元付け人でかつて部屋を脱走したと報じられた羽黒海(引退後、立浪部屋の世話人)の要請で、短期間ながら「報酬はいらない。今でも相撲が好きだ」と猛虎浪栄ら後進に熱心に指導を行っていたという。現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した。アドバイザー在任は短期間であったことが後年判明しているが、歴代の横綱が集まる横綱会へ出席するなど日本相撲協会との関係も改善し、現役時代の暴れん坊のイメージとはかけ離れた優しさでも知られるようになった。

退任後、宴席で同席した相撲関係者が尋ねたところ、岐阜県関市でナイフのデザイナーをしていると答えたという。

突如としてプロレスラーとしての現役を引退し、立浪部屋アドバイザーもごく短期間のうちに活動を終えた理由の一端としては、自らの過去の事績により一人娘の将来に悪影響を与えることを避けたかった意志があったものとみられる。

元気なころは娘を旅行に連れて行ったり一緒にゲームをしたりしていたが、一方で自分に付き纏う問題児のイメージは気にしており、自分が人前に現れて娘がからかわれるといけないと思って娘の入学式や卒業式には参列しなかった。

北尾は、娘を女の子らしく育てようとリカちゃん人形を与え、「顔にケガをしたら大変だから」と格闘技系の習い事はやらせなかった。

2019年4月に『週刊新潮』の取材に応じた娘の述懐によると、娘が物心つく頃には既に角界やプロレス・格闘技界とは完全に関係を断っており、角界時代からの趣味であるエアガンやナイフ、日本刀などの蒐集に傾注しながら、ナイフマガジンなどの趣味雑誌への寄稿やパソコン関係の在宅ワークなど、一般世間からも距離を置いた事業によって生計を立てていたという。

家庭内で北尾や夫人は現役時代の話をほとんどしなかった為、娘は子供の頃は北尾の事を「他の家のお父さんと比べて、体が大きくて多趣味な人」程度にしか認識していなかったという。

2010年、匿名の『角界関係者』『夕刊紙・相撲担当記者』による消息筋の伝聞形式で「北尾の近年の動静と意向」を報じる記事が配信されている。

その記事は、同年の貴乃花の相撲協会理事選挙への立候補を巡る騒動の前後から、横綱会を通じて角界に影響力を行使しようと試みたり、NHK Eテレの子供向け番組『にほんごであそぼ』にレギュラー出演していたKONISHIKIのように、自身も子供向け番組のタレントとして芸能界入りしたいという意志を示していたとするものであった。

しかし、2019年3月29日に長らく公の場に姿を現さなかった北尾の訃報が明らかになった。

同年2月10日、慢性腎不全のため千葉県の病院で死去。

55歳だった。2013年から腎臓を患い闘病生活を送っていたという。

生前からの本人の希望で葬儀は家族葬として行われ、妻と娘だけが葬儀に参列した。

死去が公表される際、夫人は「何かと世間をお騒がせしましたが、主人は曲がったことが大嫌いなとてもピュアな人でした」とその人物を語っている。

🟣闘病生活について

2019年4月の『週刊新潮』の報道によると糖尿病の悪化により2010年代前半から寝たきりに近い状態になり、トイレに行くこともままならなくなり排泄に家族の介助を必要としていたとのこと。

死去の6年前には両足首に褥瘡ができ、医師から両足首の切断を勧められたと伝わる。

死去する5年前から入院生活を始め、2018年秋から人工透析を始めたという。

この頃には糖尿病が末期の段階に進行して目はほとんど見えなくなり、意識も朦朧として娘を認識できなくなっていたという。

同年6月28日放送のTBS系「爆報!THE フライデー」には北尾の夫人が出演し、これまで公には知られることの無かった闘病生活について述懐した。

夫人は北尾が小結の頃にファンとして出会い、北尾の廃業直後に結婚した。

夫人から見た北尾はマスコミが問題児と報じる人物像とは違っており、支えなくてはと思い結婚をしたと述べている。

「好きだったから別れようと思った事はなかった」とも話しており、廃業後の仕事が軌道に乗って行かない北尾を支えてきたという。

しかし、2003年9月に立浪部屋と和解した直後に、北尾の闘病生活が始まった。

日曜大工をしていて右足首に負った擦り傷が何か月たっても治らず、医師の治療を受けても化膿が進んだという。

電気ストーブで足が焦げているのに気付かないほど感覚が麻痺、右足を庇って負担がかかった左足にも褥瘡が出来るという形で化膿が広がり、引退後の暴飲暴食が原因した『重度の糖尿病』と診断された。

両脚膝下の切断が必要と医師に告げられたが、「切断後に生きる保障も再び歩くことが出来る保障も出来ない」と言われたことや「横綱になった足」であることから夫婦は切断を拒否。

そして、別の病院を探したが入院を拒否されたという。

その後、夫人は勤務医の仕事を辞めて北尾の自宅介護を続けていたが、椎間板ヘルニアを発症し一人娘の助けなしに介護を続けられなくなってしまった。

このため一人娘に進学を断念させることにもなってしまった。

こういったことから北尾は「俺、生きてていいのか」と何度も自殺未遂を繰り返し、夫人は24時間夫から目が離せない日々を過ごすこととなった。

そして遂には腎機能が衰え、最後の入院となった。

北尾はこの入院中(死の2年前)視力も記憶も失っていく中で「自分は骨にならないと家には帰れないから、撮っておけ」とビデオで自分の姿を撮影するよう求めており、そのビデオの内容も番組中で放送された。

同番組では北尾の娘がすでに舞台出演も経験している女優(雪城ハルネ)で、2019年7月から放送のTBS系ドラマ『Heaven? 〜ご苦楽レストラン〜』の出演オーディションを受けて合格したことも夫人の述懐とともに紹介された。

●北尾光司さんのお子さん、女優の雪城ハルネさん

https://mobile.twitter.com/magical_fairy92

🟣訃報への反応

●「(当時の)師匠と折り合いが悪かっただけ。実際接すると普通の人だった」と角界関係者からも死去を惜しまれた。しかし、琴ヶ梅によると、死去する前に同期の誰にも知らせなかったという。

●7代立浪は、立浪部屋のアドバイザーについて「交流はその時(2003年の就任時)の一瞬で、その後は連絡を取っていなかったから、最近の様子は知らなかった」と発言している。故郷の津市のスポーツ振興課も交流が無かったため死去が伝えられるまで「相撲協会に入っておられない方ですので」と何も関知しておらず、立浪部屋力士すらも2月下旬に死去の噂を聞いた際に嘘だと思っているほどであった。

●Uインターで北尾と対戦した高田延彦は「いつか再会して言葉を交わしたかった」と早すぎる死を悼み、格闘技塾「北尾道場」で指導を受けた望月成晃も「驚きました。20年以上も連絡を絶ったままだったので…」とコメントしている。

●力士時代に同じ立浪・伊勢ヶ濱連合(現在の伊勢ヶ濱一門)で稽古を共にし、プロレス加入後には対戦経験のあった維新力浩司は、北尾の亡くなる約10年前にプロレスのイベントへの参加を求めた時、「もう自分は表舞台には出ないと断られた」ことを明かしている。また「体調もあったかもしれないが、増えた家族を大切にしたかったのかな。幸せな時間もあったのでは」と故人を偲んだ。

●プロレス時代の番記者であった元東京スポーツ記者の柴田惣一は、北尾の結婚披露宴は豪華なものであったが招待客に角界関係者はほとんど見かけず、二次会に至っては夫人の招待客である医療関係者ばかりで新郎側は自分だけだったと述懐し、「確かに誤解されやすい一面もあった。残念至極である」「決して話のわからない人ではなかったのだが…」とプロレスTODAYのコラムに綴っている

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