落合信彦さんの著書 「アメリカよ!あめりかよ!」の影響を受けてアメリカに留学した! 落合陽一さんの父!

🟣大学時代、友人から勧められた「アメリカよ!あめりかよ!」を読んで影響を受けアメリカへ留学した^_^💦

オレゴンへの留学には、「狼たちへの伝言」を持って行き、気合いを入れるために読んでいた 笑😃

懐かしい思い出だ!

🟣落合信彦さんとは?

落合 信彦(1942年1月8日 – )

日本出身のジャーナリスト、小説家。

国際情勢や諜報関係の事情をレポートした作品やそれらを題材とした小説、翻訳、また近年では若者向けの人生指南書を多数執筆している。

アサヒビールから発売された辛口生ビール「スーパードライ」のテレビCMの初代キャラクターに起用された。

🟣来歴

東京市浅草区(現東京都台東区)浅草出身。

東京都立両国高等学校(定時制)卒業。

高校時代には柔道で全国優勝したとアメリカのメディアが報じている (しかしながら、落合が高校の全国チャンピオンになったとされる1958年には、インターハイにまだ個人戦は設けられていなかった。

団体戦も愛知県の東海高校が優勝している。定時制の生徒のための全国大会はそれよりずっと後の1970年に初開催されている)。

1961年に奨学金を得て、米国ペンシルベニア州レディングのオルブライト大学に留学。

在学中に実兄である落合秀彦とともにレディングの警察運動協議会やオルブライト大学で柔道と空手の教室を開き、後に門下生たちがCIAや米政府高官などになり貴重な情報ソースとなったという。

大学時代には”Nobi”(ノビー)のニックネームで呼ばれた。

1965年に大学を卒業。

大学卒業後、テンプル大学大学院(国際政治学専攻)に進学(1965年)。

卒業後はジョニーという友人と石油ビジネスを開始、エクアドルで10万バレルの油田を掘り当てるなど大成功を収めるも、作家活動に専念するため1973年に日本に帰国した。

1971年に『あめりか冒険留学 スーパージャップの空手・麻薬・乱交・学園』を上梓した後、1972年に『文藝春秋』11月号(p276〜288)にて「ニクソン世代とマクガバン世代」を発表。

1977年には、『週刊文春』4月14日号に「2人の首領 笹川良一と児玉誉士夫」誌上にて「二人の首領」を発表。

同年9月22日号より「二〇三九年の真実」連載(単行本はダイヤモンド社から出版)。

当時の編集長は田中健五であった。以後、活動の拠点を集英社に移し、月刊プレイボーイ(NO.36 集英社 1978年6月1日)にノンフィクションノベル『首狩り部隊』が掲載。

以後同誌にノンフィクションノベル及びノンフィクションを発表するなど、主に国際情勢を題材にしたノンフィクションの記事、単行本、小説などを多数発表。

1987年には「アサヒスーパードライ」(アサヒビール)のCMキャラクターとして起用され、作家長者番付で上位10位にランクインする。

1997年にはオルブライト大学から名誉博士号(honorary degree of Doctor of Humanities)を授与され、2002年には中華人民共和国・山東省観光大使に就任している。インターネット上にて「勝ち組クラブ」主宰、小学館『SAPIO』で記事を連載。

🟣エピソード

●ブラックマンデー直前に友人のドナルド・トランプに売りの指示をして、巨額の損失を回避させることに成功した。

●英語は辞書を食べて覚えた

●CIAに200名の知り合いがいる

●キャリアの絶頂期には情報収集のために年間3000万円、国際電話代は月に200万円以上の経費を計上していた。

●襲撃に備え、レストランでは常に壁を背にして座る。

●車に乗り込む前は、爆弾が仕掛けられていないかチェックをする。

●友人の誘いにより大学院を中退(1966年)、その友人の興した油田探鉱の会社で副社長として勤務する。一方で当時のロバート・ケネディ上院議員の大統領選挙スタッフとしても活動。

後の暗殺を受けて落合は殺害犯サーハン・ベシャラ・サーハンは遠隔からのマインド・コントロールを受けていたという説を発表。獄中のサーハンを精神科医と共に訪問した落合はサーハンに加害意識がないことを確信したという。

小規模会社でありながら、中東、南米、アフリカ等におけるジャイアンツ(巨大油田)の発見や石油メジャーとビジネス交渉などを行う。もっぱら後進国である現地で暴動がおこり会社のオペレーションが被害を受けることもたびたびあり、落合の人脈で特に最も信用できるエンジニアが流れ弾に当たって死亡する事故がアフリカで起きた。

ベトナム戦争で戦死した友人に代わり社長に就任(1968年)。会社名は集英社のパーティーでワイルドターキーを飲みすぎたときに忘れたままだという。

サンフランシスコの日本人街にあるバーで流れる日本の歌を聴いて望郷の念に駆られ、日本に一時帰国(1971年)。その歌とは村田英雄の『無法松の一生』であった。

会社を売却。オイルショックのわずか7ヶ月前であった(1973年)。

●ブルース・リーと対戦し、勝利した経験がある。本人曰く「あんまり強くなかったですね、ブルース・リーは。(中略)3分で勝負がつきました」。

🟣批判

これらの自著に記されている武勇伝に対し、奥菜秀次は著書『落合信彦 最後の真実』(鹿砦社、1999)で、誇張や脚色・盗用、あるいは完全な作り話であると述べている。

奥菜によれば、次の通りである。

●ブルース・リーに空手を教授した裏付けも存在しなければ、ロバート・ケネディやジョン・F・ケネディと対面した記録もない。自著に記されている発見した油田も架空の名前である。

●落合の著作中、「(渡米後)ジョン・F・ケネディの大統領就任演説を聞いた」という記述があるが、ケネディの大統領就任は1961年1月であり、落合の渡米は1961年8月である。

●KGB長官に会うため、長官室に行くには幾多にも複雑に曲がりくねった廊下と階段を経る必要があったと記しているが、実際の長官室はビルのロビーから真っ直ぐ進んだ場所にあった。

●デーブ・スペクターは週刊文春での対談連載(「東京裁判」)を担当してた頃、落合を指名し、直接疑問を問い質した。(アサヒビール・スーパードライのコマーシャルで落合を目にし、余りにもよく目にするので、「これ誰?」と知人に聞いた事を切っ掛けに、落合に関心を持ったと言う。)インタビューは行われたが、落合が「彼(デーブ・スペクター)は、日本を食い物にする人物」と言って、最終的にインタビューの掲載を拒否し、ボツになった。

しかし、そのゲラが月刊誌に流出。デーブは週刊新潮のインタビューで、「落合さんの本に“取材では相手を怒らせろ”と書いてあったから、そのとおりにしたら本当に怒ってボツにされちゃった。でも、具体的に何に対して怒ったのかはまったく覚えていないけどね」と語っている。

一方テリー伊藤は同じ記事で、落合信彦を批判することは、「プロレスに対して『八百長だ!』などと怒っているのと同じ」であると反論している。

🟣落合信彦・陽一氏の親子対談 劣化する世界を生き抜く知恵

https://www.news-postseven.com/archives/20161108_464370.html?DETAIL

🟣【落合親子対談・前編】父・信彦氏が会ったトランプの素顔

https://m.newspicks.com/news/1892071/body/

🟣アサヒスーパードライ 落合信彦

●少々、英語を話している

🟣アサヒ スーパードライ 【新発売】 CM 1987 落合信彦

🟣アサヒ スーパードライ – 落合信彦 「遺跡」篇/「New York」篇

●’88 「遺跡」篇 ♪ JOHN WARREN 「TAKE ME BACK」 ’91 「New York」篇

🟣アサヒスーパードライ(1989):落合信彦 6【外で商談】15.mp4

🟣落合信彦『ケネディからの伝言』&『二〇世紀最大の謀略 ―ケネディ暗殺の真実―』|小学館の本2013/12/16

🟣【落合信彦氏の実兄 落合秀彦さん】Hidy Ochiai – Apple Sliced with Sword demonstration

🟣落合秀彦(1939年9月27日 – )日本出身の空手家、作家、俳優である。

●来歴

オルブライト大学卒業。アメリカ合衆国において空手流派のうちの一つ和心流を創立したことで知られる。

現役時代には全米空手選手権で五回連続優勝を果たした。

また、米国ブラックベルトマガジンの表紙を二回飾るなど、空手家としてアメリカ合衆国では著名な存在である。

1967年から1980年の間プロの空手家として活躍した後、2001年に Hidy Ochiai Foundationを設立し、ニューヨーク州ビンガムトン市にて、後進の育成に当たっている。

●親族

実弟は国際政治ジャーナリストの落合信彦。息

子はレディー・ガガの主治医を務めたことで著名なデレク・オチアイ。

デレクも全米空手選手権で二度優勝している。

甥はメディアアーティスト/研究者の落合陽一。

🟣息子の落合陽一さん 
Digital Artist Extraordinaire | Yoichi Ochiai | Talks at Google

🟣「アメリカよ!あめりかよ!」

🟣狼たちへの伝言

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