封印された1973年版の「ドラえもん」とは?

作成日: 2020/12/4

🟣1973年版のドラえもんのOP、ED

🟣『ドラえもん』のアニメには以下の3作品が存在する。

●1973年に日本テレビ系列で放送されたシリーズ → 封印された!

●1979年から2005年3月までテレビ朝日系列で放送されたシリーズ

●2005年4月からテレビ朝日系列で放送中のシリーズ

🟣「封印」の状況とメディアでの扱い

2020年の段階で、再放送およびDVD化はなく、テレビ番組などでまれに紹介される機会があっても、本作に関する説明がなされたこともほとんどない(雑誌やムック本などのドラえもんや藤子アニメの年表にも本作のことが掲載されていないケースが多い)。

その理由と経緯については、安藤健二の著書『封印作品の憂鬱』(洋泉社2008年)において、小学館関係者などの証言が詳しく述べられている。

原作者の藤子・F・不二雄は本作の内容に否定的であったとされる。

このアニメ化は、日本テレビのプロデューサーからの小学館への申し入れによって決まったとされ、当初藤子・F・不二雄は日本テレビから寄せられた依頼に応じて舞台となる街や野比家の設定に使う絵を制作会社に送ったりしたが、それに対する反応がまったくなかったと前記の井川浩は述べている。

その一方で、制作主任であった真佐美ジュンによると、藤子・F・不二雄との打ち合わせに関しては、当初は真佐美が喫茶店で当たっていたと証言しており、「原作者からの注文や要望は最後までなかった」と述べている。

その後、藤子・F・不二雄は次第に仕事の都合から出向いてまで打ち合わせを行える暇がなくなり、その際には当時藤子・F・不二雄と共に「藤子不二雄」として活動していた名義上は本作の原作者の一人である安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)と校正などの打ち合わせをしたという。

藤子・F・不二雄とのパイプ役には文芸担当の徳丸正夫が「演出的センスを持っていて人当たりがよく辛抱強い」という理由から「原作者との校閲係」に選ばれ、藤子・F・不二雄との「脚本」「絵コンテ」「キャラクター設定」「色指定の校閲」のパイプ役として打ち合わせにあたっていたという。

徳丸正夫は打ち合わせをするため、スタジオ・ゼロ(かつて藤子スタジオスタジオ・ゼロのビル内にあった)に24時間待機して、空いた時間を使って藤子・F・不二雄と常に校閲を行っていたという。

これらの点は、井川浩ら「原作者や小学館とは没交渉のままアニメ制作が進められた」という小学館関係者の証言とは大きく食い違っている。ちなみにフィルムの編集作業は、奇しくも当時の藤子スタジオと同じビルのスタジオ・ゼロで行われていた。

放映中に制作会社が突然解散したことで残されたスタッフは債権処理などに追われた。そのためか「番組が打ち切られた報せが小学館に来なかった」と、井川浩は述べている。

当時の漫画界では「アニメが終わったら原作も終わる」というのが常識であり、そのため『ドラえもん』も一時は連載を終わらせ、新キャラクターと入れ替えようという話が小学館から出ていたという。

しかし自作『ドラえもん』に愛着のあった藤子・F・不二雄は、それを押し切る形で新連載である『みきおとミキオ』との2本立ての形で連載を続行したが、1974年より刊行が始まった『ドラえもん』の単行本が予想外の大ヒットとなったため、『みきおとミキオ』の連載は1年で打ち切られた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です