【タブー】松旭斎天勝 – 明治時代のプリンセス・テンコー、美貌の天才奇術師、師匠から妾になるよう迫られ、自殺を図るも一命は取り留める、アメリカ興業で大成功しニセ天勝続出 –

◼️松旭斎 天勝とは?













松旭斎 天勝 (しょうきょくさい・ てんかつ)

本名:中井かつ

1886年(明治19年)5月21日 – 1944年(昭和19年)11月11日)

明治後半から昭和初期まで興行界で大成功した女流奇術師。 東京、神田生まれ。

●女流イリュージョニストである二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)の師、初代・引田天功は松旭斎天勝の弟弟子である松旭斎天洋 門下であり、遡れば彼女もまた「松旭斎一門」である。



■経歴:
1895年(明治28年)、神田松富町の質屋の娘だったが家業が失敗、門前仲町のテンプラ屋に奉公人として勤める。

店主が当時の一流奇術師・松旭斎天一(しょうきょくさい ・てんいち)だった事が縁で、器用さを見込まれ弟子として採用された。

後に天一に妾になるよう迫られ、自殺を図るも一命は取り留める。

松旭斎天一



それからは 奇術を積極的に自分の物にすると決心、妾を宿命とし受け入れた。

弟子70人を数える『天一一座』でスターとして頭角を表し、「天勝」として舞台へ出演した。

日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、数度に渡るアメリカ興行も成功させた。


松旭斎天一 一座のアメリカ興業



天勝と助手





帰国後の公演では、スパンコールの衣裳に付け睫毛という日本初の欧米風なマジックショーを披露。モダンさと目新しさに大衆は熱狂した。

1911年(明治44年)、27歳で独立。
座員100名を越す『天勝一座』の座長になった。

一座のマネジャーを務めた野呂辰之助と結婚。

奇術師の立場が強くなかったこの時代、一座と天勝を守るため野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている。

「奇術といえば天勝」という代名詞にもなった程の知名度を誇り、キャラクター商品なども大ヒットした。

当時の得意芸としては水芸などがある。この人気と知名度にあやかったニセ物の”天勝一座”も複数現れたと言われる。




大正5年2月9日 都新聞
❍天勝のテンペスト 十一日より有楽座にて上演すべく昨日其舞台稽古に着手せり。




引退後は姪に二代目天勝の名を譲る。

50歳を過ぎてからスペイン語の学者と出逢い、一生を添い遂げた。

墓所は台東区西徳寺。

◼️松旭斎天一 一座のポスター (明治41年公演分)左が天勝

◼️関連書籍

◼️天一一代―明治のスーパーマジシャン <単行本>

●内容 : 幕末、福井の下級武士の家に生まれた悪童は、日本伝統奇術「手妻」と西洋奇術の第一人者・松旭斎天一となり、日本全国はもとより、アメリカ、ヨーロッパ公演を成功させ、川上音二郎や桃中軒雲右衛門と並び称される、明治の代表的芸能人となった。

激動の明治のスーパースターの面白すぎる生涯を、現役マジシャンの第一人者が描く! 松旭斎天一没後100年記念出版。 

🟣関連動画










コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です