2020/4/15
2013年2月に「南方熊楠記念館」を訪れた。
当時は、中国に住んでいたためなかなかスケジュールが合わず行けてなかったが、やっと長年の思いが実現し、この南方熊楠記念館へ訪問することができた。
新大阪から和歌山県白浜駅「くろしお号」で2時間15分、白浜駅からタクシーで約15分と意外と気軽に行ける。
記念館内の入口の途中には天皇陛下が熊楠を偲んで詠んだ句の石碑がある。
記念館内にはいるとすぐに熊楠の末裔の方が経営されている「世界一統」の日本酒が目につく。
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壁には熊楠のデスマスクの写真がかかっている。 展示室内の熊楠が亡くなってすぐに撮られたと思われる写真があったが、熊楠の鼻は相当高く、ほりが深い、ちょっと日本人離れしたビスマルクのような顔立ちだ。
展示室内には、熊楠ゆかりのものがところせましと並べられている。
熊楠が写し取った「和漢三才図会」、孫文から贈られた帽子、例のキャラメルの箱、採集した粘菌の数々、熊楠が海外で使っていたスーツケースなどなど、ここは宝の宝庫だ。
ここにいると熊楠が歩んできた時代にタイムスリップした気になる。
熊楠が採集してきた粘菌類などを分類、整理するには、まだまだ時間がかかり熊楠の業績はこれから明らかになっていくことも多いだろう。
初めて熊楠を知ったのはかれこれ30年以上前のことになるだろうか。。
水木しげるのマンガだったかジャンプに連載されていた「てんぎゃん」だったか、はたまたテレビ番組だったかは忘れたが、その時の強烈なエピソードの数々は今でも忘れない。
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熊楠は、東京大学を退学、アメリカに渡ったあとミシガン州農大を泥酔事件で退学となる。
その後、動植物の研究をしながらアメリカ大陸を南下、キューバに辿り着いた頃にはお金が底をつき、サーカス団に入団し像使いの弟子として身銭を稼いだ。
そして、彼はこのキューバにおいて、ギアレクタ・クバナという新種の地衣植物を発見した。
ギアレクタ・クバナは、東洋人が白人領地内において発見した最初の植物である。
その後、イギリスへ渡り大英博物館で働いたが、けんかして首になる。。。
尋常ではない胆力を持ち、豪快、我が道をゆく、権威など屁のかっぱ。
同時代にロンドンに留学した夏目漱石が留学中、精神的に参ってしまったのとは雲泥の差がある。
豪傑、超人的な記憶力、科学雑誌ネイチャー誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者。
天皇陛下へ粘菌標本を献上した際に森永のキャラメルの箱を使う。
神社合祀令に対し、神社合祀反対運動をおこし大自然を守った元祖エコロジスト。
英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語におよぶ19の言語を操る。
孫文、柳田國男との交流、などなど。
熊楠の人生は実に濃度が濃く味わい深いのだ。
■南方熊楠とは?
南方 熊楠(みなかた くまぐす)
1867年5月18日(慶応3年4月15日) – 1941年(昭和16年12月29日)
日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。
菌類学者としては粘菌の研究で知られている。
主著『十二支考』『南方随筆』など。
投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。
「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。
<人物像>
■子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した能力をもっていた。
田辺在住の知人野口利太郎は南方と会話した際、“某氏”の話が出た。
南方は即座に、「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんな事をしていた」ということを話した。
野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている。
■元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、南方をいろいろ調べたことがあった。
その後、南方と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほどたって今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ南方は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという。
■旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし、『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれる。
■奇行が多かったことで知られる。異常な癇癪(かんしゃく)持ちであり、一度怒り出すと手がつけられないほど凶暴になると、両親など周囲の人々は熊楠の子供時代から頭を抱えていた。
熊楠も自分のそういった気性を自覚しており、自分が生物学などの学問に打ち込むことは、それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、柳田国男宛の書簡で書いている。
また、多汗症から、薄着あるいは裸で過ごすことが多かった。田辺の山中で採集を行った際、ふんどしだけの裸で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために「てんぎゃん」(紀州方言で天狗のこと)と呼ばれたという話も残る。
■渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」という決意の都々逸を残している。
この留学は徴兵で子供を失うことを危惧していた父と、徴兵による画一的な指導を嫌った熊楠との間で利害の一致を見たために実現したと考えられている。
なお熊楠本人は純粋な愛国主義者で、英国留学中に大使館を通し義援金を振り込んでいる。
■幼少の頃は興味の無い科目には全く目を向けず散漫な態度を教師に叱られ、大学時代も勉学に打ち込む同級生を傍目に「こんな事で、一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と大学教育に見切りをつける。
■ロンドン大学事務総長の職にあったフレデリック・V・ディキンズ(英語版)は『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと南方に大学へ来るように、と呼び出す。
熊楠はページをめくる毎にディキンズの不適切な翻訳部分を指摘し推敲するよう命じる。
日本に精通して翻訳に自信を持っていたディキンズは30歳年下の若造の不躾な振る舞いに「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と激昂、南方もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て「権威に媚び明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本には居ない」と怒鳴り返す。
その場は喧嘩別れに終わるが暫くして南方の言い分に得心したディキンズはそれから終生、南方を友人として扱った。
■猫好きなことで有名。 ロンドン留学から帰国後、猫を飼い始める。名前は一貫してチョボ六。
ロンドン時代は、掛け布団がわりに猫を抱いて寝ていたという。 のちに妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を連れてきては猫の身体を松枝に洗ってもらった。
■熊楠は、柳田國男にジョージ・ゴム(英語版)(George Laurence Gomme)編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸している。 これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなった。
■ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わり、幸若舞などにもなっている説話『百合若大臣』に翻案されたという説を唱えた。
■熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。
また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。
さらに、猥談が挟み込まれることも多く、柳田国男はそうした熊楠の論文にたびたび苦言を呈した。
しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったく無く、こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。
「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプしていくのだ。(中略)話題と話題がなめらかに接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」、「文章に猥談を突入させることによって、彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。
このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造をもつことになる。」と分析し、「こういう構造をもった文章でなければ、熊楠は書いた気がしなかったのだ。
手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、熊楠の中では、自分の大脳にたえまなく発生する分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、また彼の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」とも述べている。
■生涯定職に就かなかったためにろくに収入が無く、父の遺産や造り酒屋として成功していた弟・常楠の援助に頼りっきりだった。
常楠は、奇行が多い上に何かにつけて自分に援助を求めてくる兄をこころよく思っておらず、研究所設立のため資金集めをしていた時に遺産相続の問題で衝突して以降、生涯絶縁状態になった。
熊楠が危篤の際には電報を受けて駆けつけたが、臨終には間に合わなかった。
■口から胃の内容物を自在に吐瀉できる反芻胃を持つ体質で、小学校時代も喧嘩をすると“パッ”と吐いた。そのため、喧嘩に負けたことが無かったという。
■蔵書家ではあったが、不要な本はたとえ贈呈されたものであっても返却したという。
また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」とのことばも残している。 ただし、こんにち残された蔵書のほとんどはシミ一つなく色褪せない状態で保存されているという。
■酒豪であり、友人とともに盛り場に繰り出して芸者をあげて馬鹿騒ぎをするのが何よりも好きだった。
酔って喧嘩をして警察の世話になるなど、酒にまつわる失敗も少なくなかった。
■語学にはきわめて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語におよぶ19の言語を操ったといわれる。 語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。
■1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂い、翌1907年(明治40年)より神社合祀反対運動を起こした。
今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年(平成16年)に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。
■江戸川乱歩、岩田準一とともに男色(衆道)関連の文献研究を熱心に行ったことでも知られている。
戦前の日本では男色行為は決して珍しいことではなかったが、熊楠自身にそういった経験があったかどうかは不明。
■当時の人間にしては珍しく、比較的多くの写真が残っているため写真に撮られるのが好きだったといわれている。
■臨終の際、医者を呼ぶかと問われると「花が消えるから」と拒否したという。
■熊楠の脳は大阪大学医学部にホルマリン漬けとして保存されている。本人は幽体離脱や幻覚などをたびたび体験していたため、死後自分の脳を調べてもらうよう要望していた。
MRIで調べたところ右側頭葉奥の海馬に萎縮があり、それが幻覚の元になった可能性があるといわれる。
■熊楠が飼っていた亀は2000年(平成12年)近くまで生きていた。正確な年齢はわからないものの、100歳は超えていたといわれる。
■南方熊楠 語録:
1、「肩書きがなくては、己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない。」
2、「世界に、不要のものなし。」
3、「相手が高名な学者じゃからちゅうて、間違っちょるもんを正しいと心にもない世辞を並び立てるような未開人はイギリスにはいても日本にはおらん!誤りを正すほどの気兼ねもない卑屈な奴など生きておっても何の益もない!」
ロンドン大学事務総長の職にあったフレデリック・V・ディキンズとの『竹取物語』英訳に関する逸話から。
4、渡米の前に、
「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」という決意の都々逸を残している。
5、幼少のころは興味のない科目には全く目を向けず散漫な態度を教師に叱られ、大学予備門(現・東京大学)時代も勉学に打ち込む同級生を傍目に、
「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」
と大学教育に見切りをつける。
6、昭和16年12月28日、病状が重くなったので、家人が医者を呼ばうとすると、
「医者はいらん」と断わり、
「天井に美しいおうちの花が咲いている。
医者が来るとその花が消えてしまうから呼ばないでくれ。 縁の下に白い小鳥が死んでるから、朝になったら葬ってやってくれ」
と不可解なことをつぶやいた。
夜になってから「私はこれからぐっすり眠るから、羽織を頭からかけてくれ。ではお前達も休んでくれ」
といった。 そして翌午前6時30分、死亡。 享年74歳。
■エピソード1 (田辺定住時代)
🟣泥酔して柳田國男と面会。 講演会では都々逸(どどいつ)と百面相!
1904年(明治37)10月田辺へ来た熊楠は、喜多幅武三郎、多屋寿平次一家、川島草堂らと交わるうち、この地が「至って人気よろしく、物価安く静かにあり、風景気候はよし」ということで、気に入って、ついにここに落ち着くことになった。
中屋敷町中丁北端の多屋家の持ち家を借り、和歌山に置いていた書物を取り寄せるなどして、気ままな生活を始めた。
多屋家の借宅は田辺の古くからの住宅地で、近くに料亭や芸妓の置屋も多くあり、知人達をそこに集め、また芸者を呼び、飲み、得意の都々逸や、大津絵などを唄ったり、奇芸をして騒ぐことが多かった。
熊楠は、多数の人に講演することの嫌いな人で、そういう場合はしばしば酔って登壇した。
🟣田辺では、1909年(明治四十二年) 42歳のとき、台場公園売却反対集会で、酔って壇上で都々逸を歌い、さらに巡査と乱暴に及ぼうとして、石友(石工の佐武友吉)に助けられている。
🟣1910年(明治四十三年)43歳の時、田辺中学で開かれていた紀伊教育会主催夏期講習会の会場に、神社合祀推進派の県吏に面会しようと「乱入」して警察に拘引された時も酔っていた。
会場へ行く前に牟婁新報社を訪れた時にも、すでに少し酔っていた。
社長の毛利清雅の言によると、「あとで聞けば先生は、社で飲んで、それから小倉酒店で飲んで、玉三酒店で飲んだ。今朝来ビール瓶を倒す事約十幾本……」という状態だった。
結局、酒の上のことだというので「放免」になった。
1913年(大正二年)46歳、12月に柳田国男が田辺を訪れたときも、自宅に柳田を迎えながら、こちらから旅館に伺うといって帰し、旅館の錦城館へ行く途中で例の小倉酒店に寄り、さらに旅館の帳場で、初めての人に会うのはどうも恥ずかしいと酒を注文している。
柳田の部屋に通されたときにはすっかり出来上がっていて、両者のただ一度の面会は奇妙なものとなった。
🟣1920年(大正九年)、53歳の時、高野山に菌採集に登った際、しぶしぶ講演を承知したが、定刻になっても会場の大師堂教会に現われず、さがすと小さな居酒屋で飲んでいた。
結局、壇上で突然、泣きだしたり、「恒河のほとりに住まいして娑羅双樹の下で涅槃する」と二上りの調子で歌いだす始末だった。
1920年(大正九年)、高野山ではほぼ三十年ぶりに土宜法竜と面会した時も酔っていた。
宿舎の一条院の宿房で朝食中に金剛峰寺から電話がかかってきて、管長(法竜)が面会したいという。 朝食を中止して同行者たちは衣服を改めたが、熊楠は茶碗を突き出して「酒」と命じて結局二本飲んだ。
🟣翌1921年(大正十年)の法竜との再度の面会の時も、同行の画家、楠本秀男は「先生先きに酒気あり」と書き、法竜の部屋が暖められていたため一時に酔いを発し、いびきをかいて眠り込んでしまった、と述べている。
🟣1922年(大正十一年)、55歳の時、上京した際、中山太郎にともなわれて国学院大学へでかけたが、壇上に立たされても一言もしゃべらず、百面相をしてみせたという。
もちろん酔っていたのである。
■エピソード2 (神社合祀反対運動) 神社合祀反対運動で泥酔して抗議、投獄中に粘菌発見!
1906年(明治39)の終りごろから、第一次西園寺内閣は
神社合祀を全国に励行し、次の桂内閣もこれを引き継いだ。
これは、各集落毎に数々ある神社を合祀して、一町村一神社を標準とせよというもので、和歌山県はとくに強制威圧的に推進しようとした。
町村の集落ごとに祀られている神社は、住民の融和、慰安や信仰の拠)りどころであり、史跡と古伝の滅亡させるもので、また、そこにはほとんど例外なく、うっそうとした森林があった。
神社合祀が行われると併合された後の神社林が伐採されることで自然風景と貴重な解明されていない生物が絶滅するのなどを心配したのである。
各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた『牟婁新報』の社主、毛利清雅の新聞に反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。
『牟婁新報』には毎号、反対意見を投稿し、掲載され賑わしたが、さらに『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などにも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求める働きかけをした。
なかでも、東京大学教授で植物の権威、松村任三(じんぞう)に、国・県の神社合祀のやり方をきびしく批判した長文の手紙を寄せた。
これを、民俗学者で当時内閣法制局参事官であった柳田國男が、『南方二書』として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けた。
1910年(明治43)8月、田辺中学校講堂(現田辺高校)で夏期教育講習会があり、主催者側として出席した田村某は神社合祀を進める県の役人で、熊楠はこの人に会おうと
閉会式の会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、酒の酔いも手伝って、持っていた標本の入った信玄袋を会場内へ投げ込んだ。
このことから「家宅侵入罪」で連行され、18日間、未決のまま監獄に入れられた。
結局、無罪で釈放となったが、その間本を読み、構内で粘菌を見つけたりした。
釈放される時、看守がそのことを知らせると、「ここへは誰も来ないので静かだし、その上涼しい。もう少し置いてほしい」と言って、出ようとしなかったと伝えられている。
■熊楠の風貌 – 身長:157.5~160.6cm
熊楠は明治、大正、昭和を生きた人物であるが、明治生まれのひととしては写真が数多く残っていると言われる。
アメリカのジャクソンで撮られた若き日の写真を見ると非常にイケメンである。
また晩年の熊楠も風格のある俳優のような顔をしている。
若い時は、西村和彦、本木雅弘、本田圭佑、田村亮、鈴木崇司、晩年は、勝新太郎、北方謙三、ビスマルクなどに似ている感じがする 笑
■晩年の風貌:
(熊楠が銭湯に入った様子を、田辺市に住んでいた、当時子供であった人の記憶の文章)
身の丈5尺2、3寸(157.5~160.6cm)、
でっぷり太った身体は胸が厚く、
腹が出ているが筋肉質ではなく、
脂肪太りの丸みに包まれてしなやかでさえある。
だからといって、短躯句矮小(たんくわいしょう)ではなく黄色の肌に逞しさを秘めている。
丸刈りの頭は円満で人並みより大きく、
鼻下の立派な口髭同様白いものが混じっている。
眉毛はあまり濃くなく柔和なほうだが、眼はらんらんとしてするどく、にらみつけられる感じである。
狸のなんとかではないが、このほうもすぐれていた。
(中略)
この風変わりな人は手拭いを使っていない。
そればかりか石鹸も持っていない。
手拭いはどこかに置いてあるのだろうが、
しきりと手で湯をしゃくっては体にかけ、
体じゅうをゆっくり両手の爪で引っかいては湯をかける。
体の垢を爪でおとしているのである。
時々、何かをむにゃむにゃ言うが聞こえない。
湯に使っては胸から脇腹や背中に手をのばしてひっかく。
ちょっとゴリラの動作を思わせて異様である。
(中略)
紀州の生んだ世界万学の士、南方熊楠翁の赤裸々な姿は風呂の中であった。
■アメリカ時代のエピソード:
現在のミシガン州立大学図書館
ミシガン州立農学校:ウィスキーで泥酔、退学処分!
アメリカ留学の決まった熊楠は、10月、和歌山松寿亭で杉村広太郎(のち楚人冠(そじんかん)と号した有名な新聞記者)ら友人たちと別離の会を開き、神戸から横浜に向かい、東京での渡航準備や紀州出身の学友達と留別送の会を催し、1886年(明治19)12月22日、横浜からシティ・オブ・ペキン号(3,120トン)に乗船して、渡米の途についた。
これより前、親友羽山繁太郎に贈った写真の裏に、
「僕も是から勉強をつんで、洋行すましたその後は、ふるあめりかを跡に見て、晴る日の本立ち帰り、一大事業をなした後、天下の男といはれたい」
と、その決意の程を記している。
ペキン号は、翌1887年(明治20)1月7日、サンフランシスコに入港した。
翌日上陸して、熊楠は間もなく同地のパシフィック・ビジネス・カレッジ(商業学校)に入学した。しかし、もともと商業嫌いな熊楠は、勉強するつもりはなく、いわば外国生活を体験したようなものであった。
1887年8月にシカゴを経てランシングに行き、ミシガン州立農学校に入学願書を提出し、試験の結果入学を許可された。
1888年4月、日本人学生二人と幾何学の勉強中、アメリカ人学生の乱暴に会い乱闘騒ぎが起こるが、熊楠が認めた訴文などにより、校長の裁判によってアメリカ人学生は停学処分となりひとまず解決した、
しかし11月、寄宿舎にて小宴をし、アメリカ人学生二人、日本人学生二人とウイスキ-を飲み、「法師さん」の遊びをし大酔して、自室に帰る途中廊下で眠り、雪中寄宿舎見回りの校長に発見され、問題になることとなった、
しかし、他の四人の放校を免れる為、熊楠一人が、責任をとることとし、翌早朝、農学校を去りアナーバーに移った。
■ロンドンの下宿で木村駿吉博士とビール18本
熊楠が大英博物館に勤めていた頃のエピソード。
ロンドンにある馬小屋の2階のような下宿にて。
現在の下宿跡。
住所:15, Blithfield Street W8
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
小生は前述亡父の鑑識通り、金銭に縁の薄い男である。金銭があれば書籍を買う。
かつて福本日南が小生の下宿を訪ねたときの記録文(日南文集にある)にもこのことを載せ、何とも知れない狭くてみすぼらしい部屋に寝床と尿壷だけがあって、塵埃は払ってもなくならず、しかしながら書籍と標本は、一糸乱れず整備しているのには思わず感心した、とあったと記憶する。
いつもその通りである。ロンドンで久しくいた下宿は、じつは馬部屋の2階のようなものであった。
かつて前田正名氏に頼まれ、キュー皇立植物園長シスルトン・ダイヤー男爵を訪れた翌日、男爵より小生へ電信を発せられたが、町がわからずに(あまりに狭苦しい町なため)電信が届かなかったことがある。
そして、この2階に来て泊まり、昼夜快談した人に木村駿吉博士などの名士が多く、斎藤七五郎中将(旅順開戦の状を明治天皇御前に注進申した人。
この人は醤油を造るために豆を踏んで生活した貧婦の子である。 小生と同じく私塾に行って他人が学ぶのを見て覚え、帰って記憶のまま写し出して勉学したという)、吉岡範策(故佐々友房の甥、柔道の達人、ただ今海軍中将である)、加藤寛治、鎌田栄吉、孫逸仙(孫文)、オステン・サッケン男爵などその他多い。
オステン・サッケン男爵は、シカゴの露国総領事である。公務の暇に両翅虫学 Dipterology を修め、この学問における大権威であった。
この人を助けて小生は『聖書』の獅子の死骸より蜂蜜を得たサムソンの話を研究し、ブンブン(雪隠虫の尾の長いものが羽化したアブで、きわめてミツバチに似たもの)をミツバチと間違えて、このような俗信が生じたことを述べ、ハイデルベルヒで2度まで出版し、大英博物館でもミツバチとブンブンを並べて公示し、2虫間に天然模擬が行なわれていることを証明するに及んだ。
このことは近日『大毎』紙へ載せるからご笑覧を乞うておく。
このサッケン男爵(当時63、4歳)は、小生の部屋を訪れたとき茶を出したが、あまりの室内の汚さにその茶を飲まずに帰った。
木村駿吉博士は無双の数学家だが、
きわめてまた経済の下手な人である。ロンドンへ来たときはほとんど文無しで予を訪れ、予もご同様のため、仕方なくトマトを数個買ってきて、パンにバターをつけて食べたが旨くなく、いっそ討ち死にと覚悟して、ありったけ出してビールを買ってきて、快談して呑むうちに夜も更けわたり、小便に2階を下りると、下で寝ている労働者がぐずぐず言うから、室内にある尿壷、バケツはもちろん、顔を洗う水盆までにも小便をたれ込み、なお、したくなると窓をそっと開けて屋根へ流し落とす。
そのうち手が狂ってカーペットの上に小便をひっくり返し、次第に下の部屋に落ちたので、下の労働者が眠りながらなめたかどうかは知らない。
まさにこれは「小便をこぼれし酒と思ひしは、とっくり見ざる不調法なり」。
翌朝起きて家の主婦に大目玉を頂戴したことがある。
一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が100円送られたのこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢であったのだ。まかぬ種は生えぬというが、カーペットの上にまいた黄金水が硬化して100円となったものと見える。
■ロンドン時代の居住地住所と現在の建物
熊楠は、アメリカからイギリスへ渡り、ロンドンに着いたのは、1892年9月26日、26歳。
その後、34歳まで、ほぼ八年間滞在した。
、
1、 24, Euston Square NW1 (1892. 2~1893. 5)
熊楠は、入港地リバプールからロンドンのユーストン駅に到着、、駅のすぐ前に宿をとり数ヶ月を過ごした。
上の方の安い室へと移り替えて最後は四階の室に
住んだ。 その建物は、今はなく、一帯は駅前広場となっている。
2, 15, Blithfield Street W8 (1893. 5~1898. 2)
この2番目の下宿は、熊楠のロンドンにおける主要下宿。
当時としてはロンドンの西はずれにあたる新興住宅地区ケンジントンの一角にあり、かつて「馬屋の二階」として伝えられていたところである。
すぐ近くに自然史博物館があり、当初は同博物館への便宜も考えてこの下宿を選んだふしもあるが、後に中心部の大英博物館に通うようになってからもここに留まって、5年近く住んだ。
現在もこの建物は普通の住居として残っている。
この幽居のある通りを曲がったすぐ角のところに、ヴィクトリア時代からあるという古いパブが今も営業している。
熊楠が町の角々のパブで一杯ずつ飲んで帰ったと
いうからこのパブにもよったのであろう。
1893年(明治26)・・26歳。
9月、大英博物館考古学部長のフランクス及び副部長のリードに紹介され、同館で東洋関係の資料の整理を助け、勉学の便を得る。
10月、『ネイチャー』に、始めて「東洋の星座」が掲載され、
それ以後同誌に投稿するようになる。
10月末、真言宗僧侶・土宜法竜(ときほうりゅう)と出会い、文通を始める。 26歳の熊楠が39歳の土宜に対する30余通の手紙は後に 『南方熊楠・土宜法竜往復書簡』として出版。
1895年(明治28)・・28歳。
4月、大英博物館での図書閲覧を正式に許可される。
10月、大英博物館東洋図書部長、ダグラスを訪ね、これ以後その知遇を得る。
1896年(明治29)・・19歳。
2月、母スミ死去(1838年生まれ)。
1897年(明治30)・・30歳。
3月、大英博物館のダグラスの部屋で、始めて孫文と知り合う(6月まで)。
7月、孫文がイギリスを去る。
11月、大英博物館でイギリス人を殴打事件を起こし、1ヶ月の入館禁止。
12月、大英博物館に復帰を許される。
1898年(明治31)・・31歳。
2月、再びくだんのイギリス人に唾を吐きかけ口論になる。
12月、大英博物館で、女性の高声を制したことから紛争が起こり、大英博物館から追放の通告を受ける。
3, このほかの熊楠の下宿住所は、
・住所:7, Effie Road SW6 (1898. 2~1899.10)
1899年(明治32)・・32歳。
1月、ダグラスの尽力で、ダグラスの官房内に机を置く条件で復帰を許されたが、謝絶して、大英博物館を去る。
大英博物館での勉学は『ロンドン抜書』(1冊250ページの大判のノートが52冊)として残されている。
2月、ナチュナル・ヒストリー館に通って勉学する。
3月、南ケンシントン美術館で、日本書の題号翻訳の仕事を依頼される。
4月以降南ケンシントン(美術)館で勉強する。
6月、『ノーツ・アンド・クィリアーズ』に初めて投稿、以後、1933年まで続く(翌1900年、『神跡考』を発表。
・住所:1, Crescent Place SW3 (1899.10~1900. 8)
1900年(明治33)・・33歳。
9月、リヴァプールより出港して、19年ぶりで帰国の途につく。
10月、和歌山の実家にしばらく滞在。
11月、和歌山浦で紀州の隠花植物の調査。
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