【タブー】その昔、奈良県桜井市や御所市には多くの出雲族が住んでいた! 葛城一言主神社、鴨都波神社、出雲屋敷、高鴨神社、ダンノダイラ! 出雲王国 副王 事代主の息子 クシヒカタ (天日方奇日方命)が奈良県の葛城へ移住してきた理由は父が徐福により暗◯された為だった!

◼️蝦夷、毛人、土蜘蛛、鬼、サンカと呼ばれた人たちは日本最初の王国を造り上げた出雲王国の出雲族 (国津神)だった。渡来系氏族の天津神によりその歴史が消されたが、日本各地に出雲族ゆかりの場所や地名が残る。

出雲族が移住してきた奈良県には、「とみ」がつく場所や地名があるが、これは出雲王家の富家(登美家)に関係している。漢字は意図的に変えられている場合がある。

等彌神社 (とみじんじや)
鳥見山 (とりみやま)
富雄丸山古墳
登美ヶ丘(とみがおか)
富雄町

また奈良県には、出雲王国の8代副王であった事代主 (別名:  一言主、少名彦、エビス様)やその一族を祀る神社も多い。三輪神社の祭神 大物主は事代主のことを指す。

◼️東出雲王家のクシヒカタ (天日方奇日方命)は、副王 事代主(八重波津身)と三島家(茨木・高槻)の玉櫛姫(活玉依姫/三嶋溝杭姫)との間に生まれた御子。

紀元前3世紀ごろ、出雲王国の副王であった父と、主王の八千戈王(大国主)がホアカリ( =徐福、ニギハヤヒ、スサノオ)の手下であったホヒ、タケヒナドリ親子と海童達によって稲目洞窟、粟島の洞窟に連れて行かれ枯死させられると言う出雲王国最大の事件が起きた。

この忌まわしい事件に、嫌気がさしたクシヒカタは、母と共に母の実家である三島(大阪府)へ移った。その後、二人の姉妹と多くの出雲族、三島の人々を連れて、奈良県の葛城に都を造る目的で移り住んだ。


そして、葛城山の麓に父である事代主を祀ったのが、葛城一言主神社である。

🔸クシヒカタが住んだ鴨都波神社

🔸御所市の金剛山、桜井市の三輪山

🔸三輪神社周辺

🔸桜井市周辺の出雲屋敷

◼️徐福の年表

徐福=ホアカリ=ニギハヤヒ=スサノオ

紀元前3世紀ごろ、最盛期を迎えていた出雲王国の8代主王 ヤチホコ(大国主)と副王のコトシロヌシ(事代主)を手下のホヒ、タケヒナドリ親子に暗殺させた。

🔸徐福は吉野ヶ里で亡くなった。徐福の子孫が奈良県の磯城王朝を倒しに2度、東征し、物部王朝を築いた。



◼️徐福の臣下のホヒ、タケヒナドリ親子に暗殺された事代主は、出雲の大国主(八千戈)と同様に、今なお日本全国において祀られている。


名称が変えられている為、気付かないが、事代主は別名を一言主、恵比寿、そして三輪山の大物主として多くの人に信奉され続けている。


出雲から葛城地方にやってきた事代主の息子であるクシヒカタは、出雲や三島(高槻、茨木)の多くの人々と葛城の地を開拓したが、それにより、蹈鞴(タタラ)による金属精錬技術などの出雲文化が広まった。


クシヒカタと共に移住してきた妹は「タタライスズ」姫と呼ばれた。タタラとは、当時の製鉄法のことであり、「イスズ」とはユスギが変化した言葉で、川砂鉄をすくいとるという意味だった。


葛城一言主神社を南方に下ったところに「名柄」という土地があり、そこから銅鐸が出土した。最古の銅鐸は出雲王国での祭祀の際に使用される神器だったが、出雲人の移住によリヤマト王国の神器にもなっていったと考えられる。


葛城一言主神社の参道と境内に「蜘蛛塚」がある。

高天原の「高天彦神社」にも、「蜘蛛塚」と「蜘蛛窟」がある。


伝承によると、神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭と胴と足を切り離し、別々に埋めたと云われている。

この土蜘蛛というのは、葛城の竪穴住居に住んでいたことや身体的特徴などからこの地に住んでいた出雲族のことだ。

ちなみに記紀で言うところの神武天皇は存在しておらず、ヤマト王権の初代大王は徐福の孫のアメノムラクモ(海部氏、籠神社宮司家)である。


葛城地区は後に徐福と大国主の血を引く「海部家」の天村雲(アメノムラクモ)がやってきて、クシヒカタらの「登美家」や多岐津彦 (大屋姫の弟、西出雲王家出身) らの「高鴨家」と共存する。

奈良県御所市にある高鴨神社は、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ、アヂシキタカヒコネ)が息子の多岐津彦 (多伎都比古命) により祀られた。

※大国主 (ヤチホコ)→阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)→多岐津彦 (多伎都比古命)

※事代主 (一言主、大物主) → クシヒカタ

※【出雲】徐福(火明、饒速日、素戔嗚)→五十猛(天香語山)→アメノムラクモ(天村雲) →京都府宮津市の籠(かご)神社の宮司家 海部氏

※王になりたかった徐福の命令により臣下のホヒ、タケヒナドリ親子が出雲王国の主王 大国主と副王の事代主をそれぞれ洞窟に幽閉し枯死させた。

※【筑紫】徐福 (火明、饒速日、素戔嗚)→物部氏

海部家は、後に「尾張家」となる。


葛城地方に住む登美家や尾張家は、この後、九州の筑紫平野を拠点とする物部一族による二度の東征によりヤマトを支配されるようになる。記紀では、このときの話しを神武東征の神話に置き換えている。


物部氏が葛城にやって来て先住民である出雲族の民を惨殺した痕跡が蜘蛛塚として残る。

◼️物部第二次東征でイツセ亡き後、和歌山県新宮市から奈良県まで攻めて来たウマシマジ。

イツセは和歌山県海南市で名草戸畔の毒矢で亡くなった。

九州の筑紫平野から南九州、高知、和歌山県海南市、新宮市を経て奈良へとやって来たウマシマジは、徐福(=ニギハヤヒ)の子孫となる。

ウマシマジ (徐福の子孫)

◼️桜井市出雲地区

ダンノダイラの磐座は出雲族の祭祀場所だった。

十二柱神社は元はダンノダイラの遥拝場だった。

◼️富雄丸山古墳

第一次物部東征時、大和を攻めて来た物部族と熾烈な戦いを繰り広げ、破れた大和・磯城の大彦(登美彦、孝元大王の第一子。登美家の血を引く。記紀では長髄彦)は北陸へ向かった。

北陸に移住した出雲族は、蝦夷と呼ばれた。蝦夷には都加留(つがる)・麁蝦夷(あらえびす)・熟蝦夷(にぎえびす)の3種がある。富家(登美家)の事代主は別名をえびすと言う。