香川県高松市松島町 – 向良神社(こうらじんじゃ)、向山周慶 (さきやま・しゅうけい) と関良介 (せき・りょうすけ) の白砂糖誕生の感動秘話! 平和記念館、中西太記念コーナー –

🟣香川県高松市松島町には江戸時代、讃岐三白の一つである白砂糖の製造に成功した東かがわ市湊出身の向山周慶(さきやま・しゅうけい)を祀る向良(こうら)神社がある。

この神社は、元々、玉藻城内にあったものを移転してきた。讃岐藩の財政を潤した向山周慶と関良介を松平家が祀っていたものをこの地に移してきた。

香川県東かがわ市湊にも向良神社 (こうらじんじゃ) があり、そして向山周慶生誕地の碑と薩摩藩奄美大島出身の関良介の墓がある。この二人の出会いから白砂糖が生み出されるまでのストーリーは感動物語である。

向山周慶の師 高松藩医 池田玄丈が当時、藩から製糖技術を研究するよう藩命を受け、高松市花園町で砂糖きびを育てていたが、志半ばにして亡くなってしまう。

その命を16才のとき、私的に引き継いだのが弟子の一人だった向山周慶だが、なかなか上手くいかない。

弟子の中には平賀源内もいた。そんな中、京都への遊学中、知り合った薩摩藩のX氏に砂糖作りの方法を尋ねるのだが国禁を犯すことになる為、教えてくれなかった。

讃岐へ帰郷後、そのX氏が火事で困窮していると聞き、周慶はすぐに援助を差し出した。

そのことにひどく感動したX氏はその恩に報いるため、国禁を犯し周慶に精糖技術を教えた。

しかしながら、理論と実際は違っておりなかなか砂糖ができない。そんな中、ある日、関良介という男が、四国巡礼の旅の途中、東かがわ市湊にあった向山周慶の家の前で病気になり倒れてしまう。それを偶然助けたのが向山周慶の兄だったのだ。

驚くことに、たまたま自宅近くで病気になり、命を助けたこの関良介という人物はなんとサトウキビを名産とする薩摩藩 奄美大島出身だったのだ。

命を助けられ回復した後、関良介は故郷の奄美大島に帰ったのだが、なんと周慶から受けた恩に報いるため薩摩藩の国禁を破り(国禁破りは死罪)、弁当箱の下に、サトウキビの種茎を隠し持ち、命を捨てる覚悟で、再度、最果ての地、東かがわ市湊の向山周慶宅を訪れてきたのだ。

そこから30年近くに渡る二人の苦労の末、1790年、ついに讃岐の地で初めて白砂糖の製造に成功した。

この白砂糖 和三盆は、「雪のように白く甘い」と称され大阪でも高く取引され、財政難に陥っていた高松藩に莫大な財源をもたらすことになる。

そういった背景があり、松平家は、玉藻城内に向良神社を祀ったのだ。

ちなみに、当時非常に高価だった砂糖を正月の三日間くらいは食べたいという庶民の願いから、高松では、砂糖入り餡餅の雑煮を食べるようなった。役人に贅沢な砂糖入り餅を食べているのを咎められた時のために、塩入り餡餅も用意した。

現在では、高松商店街の片原町にある「エビスヤ」さんでこの砂糖餡餅入りの白味噌仕立ての雑煮を食べることができる。

もし、関良介が遍路の途中、向山周慶の家の前で行き倒れにならず、さぬき市や鳴門市で倒れこの2人が出会ってなければ、讃岐三白の白砂糖は誕生していなかったかもしれない。

2017年7月に、「鶴瓶の家族に乾杯」と言う番組内で、和三盆を製造販売している東かがわ市にある三谷製糖を訪れたときのこと、番組内で作業場を見せてほしいと頼んだが、断られた。

恐らくあの番組を見ていた多くの視聴者は、和三盆が生まれるまでの長い長い年月と苦労を知らないから、どうして作業場を見せないのかと不思議に思ったかもしれない。

しかしながら、和三盆の向山周慶と関良介の命がけの努力と長年の苦労の末に編み出された精糖技術はそんな簡単にテレビで公開できるようなものではない門外不出の製法なのだ!

2018年11月18日に、香川県木田郡三木町にある香川大学農学部を訪れた際、校内に希少糖研究発祥の地記念碑があった。香川県での砂糖の研究は綿々と受け継がれているのだ。

江戸時代の讃岐三白が、塩、木綿、砂糖(和三盆)なら、現在の讃岐三白は、砂糖(希少糖)、小麦(ブランド名:さぬきの夢)、白いパップ剤か 笑⁉︎

と言うのも、香川県東かがわ市に本社を置く帝國製薬はパップ剤生産量世界一を誇る。ただOEM生産のため一般消費者でそのことを知る人は少ない。

🟣向山周慶とは?

没年:文政2.9.26 (1819.11.13)
生年:延享3.9.16 (1746.10.30)

江戸中期、讃岐国(香川県)らら大内郡湊村の医師。讃岐糖業の祖。

高松藩主松平頼恭は、宝暦(1751~64)ごろに砂糖生産に注目し、藩医池田玄丈に研究を命じた。

玄丈のあとを向山周慶が継ぎ、寛政2(1790)年、砂糖製造に成功。

周慶は京都遊学中に薩摩の人と交際を深め、また四国巡礼の途次、病にかかった薩摩の人 関良介を助け、彼らの援助によって砂糖製造が成ったと伝えられる。

寛政末ごろには、高松藩特産の雪白の白砂糖が製造されていた。

享和3(1803)年、藩の薬坊主として召し抱えられた。

🟣高松市松島町と言えば、2016年に開館した「こども未来館」がある。

ここは以前、高松市民文化センターと呼ばれる建物があった場所だ。

自分は、35年ほど前に、この場所に、新日本プロレスをよく見に来ていた。初代タイガーマスクを初めて見たのもこの場所だ。藤波辰爾にサインをもらったりした思い出もある。

友人の計らいで最前列に座ったときには放送中ずっとテレビに映っていた。

まだ初代タイガーマスクがデビューしたての頃で正体が誰か分からないときであったが、その正体不明の初代タイガーマスクに「佐山〜、佐山〜」としきりに叫び続けている明らかにおかしいファンがいた。

後になって初代タイガーマスクが佐山聡であったと知ることになったのだが、あの「佐山〜、佐山〜」と叫び続けていた男はただ者ではなかったのだ。

また別の興行のときには、控え室へ入るドア付近に立っていた永源遙が中学生の自分に「今日はテレビ放送があるのか?」と聞いてきた。「はい」と答えると「そうか、よーしっ!」と頬を両手で張って気合いを入れ直していた。

子供心に、やはりテレビ放送があるのとないのでは本気度が違うのだな、と大人の事情を目の当たりにした。

ここに来るとそんなはるか彼方に忘れていた思い出が蘇ってきた。

1階には怪童 中西太記念コーナーがある。

5階には平和記念館とプラネタリウムがある。

平和記念館では高松空襲の詳細と体験談の映像が見られる。

香川県高松市花園町にある花園町由来記念碑。向山周慶の師であった藩医 池田玄丈が花園町にて砂糖きびを育てていたことが書かれている。

🟣香川県東かがわ市湊にあるもう一つの向良神社

香川県東かがわ市湊にある向良神社。近くには関良介のお墓もある。

日本最古の和三盆をつくる「三谷製糖 羽根さぬき 本舗」

・和三盆とは? 和三盆の製法について